苦は楽の種

人が信を入れているかどうかを視るとき、それを丸ごとそれを認めるという姿勢かどうかで環境に顕われてくるものである。

何かを信じるときには、それが丸ごとかということはとても大切なことでそれが自分の都合でここだけはやこの部分はなどということでの信じ方などというものは一切ない。

全てのことは丸ごとであるかどうかということであり、仕事でも日常でも何が起きてもそれは理念に向かっている、夢の実現のためになっていると絶対肯定できるかどうかということにもよる。

そういう絶対肯定の気楽な感覚こそが、信が入ることになるのである。
なぜならそれは全てにおいて心で行うことだからである。

人間は、誰でも何かの出来事というのはどんなことをしていても起きるものである。生きていれば、毎日何かしらの出来事という縁に出逢いそこから新しい自分として上乗せされていくのである。

そういう体験をより深く掴み取るのは、その人の生き方によって変わるものである。

例えば、特に何か自分だけでは達成できないような大きな目標や偉大なビジョンがあればそれに向かって立ち向かうのだからそれ相応の出来事が起きる。それが一般的には小さいと言われたりすることでも、その人にとってはとても大きな出来事であったりもする。

そこへ向かう過程の中では、自分にとっては不都合なことも沢山発生するし、一見するとそれはうまくいっていないようにも感じることもあるのである。何かを捨てたり離れたり断ち切ったりすることで、新たになるのだから現実に起きる事象は自分にはすべて大変なことばかりなのである。

しかしそれが夢の実現への過程であり、現実の人生の道のりなのである。

畢竟、人間は何かを結果を出したから夢が大きかったのではなく、その人の生き方が充実していることの結果として夢が叶うのである。

そしてそういう日々に満足し充実した生き方とは、その人がどれだけ今、この瞬間を丸ごと楽しむことができるかということになる。そしてその楽しむには、表層上の楽しみと深層での楽しみがある。後者は、苦も楽の種ではないけれど苦みの上質さを丸ごと楽しめる境地だということになる。

そういう信楽の境地とは、前向きである事、プラス思考であること、楽観的であること、積極的であること、根の明るさというもので気楽でいることができているということである。

それが先述した、今に丸ごと信を入れたということである。

私の定義する「丸ごと認める」というのは、丸ごと今が善いことになっているということである。つまりは、それは必ず善いことになると信じていることでありそういう生き方が周囲の人々を信で活かすことにも繋がっているのである。

すぐに他人は何かの問題があると悪い方ばかり、他人に矢印を向けては文句ばかりをいい、問題を他人のせいにして自分を正当化しようとするものである。しかしそれがすでに丸ごと信じる行為と逆行してしまっているのである。

問題とは現実のことであり、現実とはそれをやればいいと言われているだけのことである。問題が可視化されるからこそ、現実を正しく知ることができそれを正面から取り組めば解決することが約束されたということなのである。

楽しく明るく元気よく健やかに日々を楽しみながら一生懸命でいることが苦を楽の種にする心の在り方なのだと思います。

生き方を決めていくことが、たった一度の人生を真に充実し楽しむためのコツなのであろうと思います。これからも子ども達の模範になるように、にこにこ顔で命がけの実践を楽しみたいと思います。