生きた学問

昨日、久しぶりに臥竜塾に参加しドイツ報告も兼ねてお時間をいただき話をするお時間をいただくことができた。

ドイツ研修では、全員が発表する中でサポートに徹していたため自分の時間を持つことができなかったけれど先生からの粋な計らいでこのようなお時間をいただけたことに感謝しています。

私はどうも一番大事なことを優先するとすぐに自分を後回しにしてしまうため、なかなか本来の自分の考えを先に周知しようとはしない癖がある。ある意味で無邪気なところばかりを見せてはぐらかすのは恥ずかしがりやであるからではないかとも分析している。

相手を思いやることに国境はなく、自他の境目を超えた場所に真の心がある。

いつも見守られていると実感できるのは、そういう心の場所をいつも正していける学問の道が同じ天を戴いているからであることを知ると本当にご縁の有難さに感謝の日々です。

昨日は、自分がドイツ研修を通して知らなかったことを知ろうとしてはいなかったことを恥じたと総括したけれどこれはとても大きな気づきであった。

論語にこうある。

「学びて思わざれば則ち罔し」

これはいくら教えを受けても、自分で深く考えることをしなければ真の学問は身に付かないということ。

そしてこの後に「思いて学ばざれば則ち殆し」とある。

そしてせっかく教わったのにそれを実行しなければそれも真の学問ではないという。

他人の話を真実だとそのままに信じる事は間違っていることではない、しかしそこでの落とし穴はその話を「自分の頭で深めない」ことにある。さらに言えば、自分が知ったからとそこで終わってしまい「自分の実践で掴みとる」ことをしていなければそれではただ教わって知っただけで終わってしまうことを意味するのである。

ただ真理を知っていることが増えて、それを受身に鵜呑みにしていたら自分で考えるのをみんなやめてしまうのである。そんなことで掴めるようなものであればそれは最初から学んでいるわけではない。

だからこそ、他人の話は素直に聴くけれどそれを本当の意味で素直に聴くというのは「ちゃんとそれを咀嚼し自分のものにしていく」ことなのである。

聴いても聴かないというのは、自分で考えるということを言っているのである。つまり自分自身の持っているこの全ての五感や六感など自らの目と耳や頭でちゃんと考え抜くことで、それを自らのものにするために具体的な実践を通じて掴み取っていくことが正しい学び方なのである。

私はだいぶ一つの業界に留まり様々なことを知った気になり分かった気にもなったのである。

それは素晴らしい師に出会い続け、先達の道にもめぐり逢い、非常に有難い恩恵溢れる最良の環境の中で学んでいることができていることからもよく分かる。

しかしそれに甘んじ学んで学ばなければあまりにもくらいのである。

知っていたことが知らないことにある日突然に変わることは素晴らしいことでそれはもう一度初心に帰り最初から学び直せる楽しみを日々に実感できるということなのである。

初心とは何か、学問とは何か、それは常に自らの頭で考え抜くことをやめてはいけない、そしてそれを自分で掴みとっていくこともやめてはいけない、なぜならそれが真の生きた学問だからであろうと私は思います。

日々は知らないことばかりだからこそ素晴らしいとしあの子ども達に恥ずかしくないように今からもさらなる学びを深めていきたいと思います。