自然界と人間界4

今、生きているこの人間界でなぜ中庸が尊ばれるかといえば元々の存在として自然界の中に人間界があるからでもある。

この自然界というものは、天道といった元々あった根源的な生命連鎖受容循環の恩恵そのものの中で私たちはそれぞれに生死の中で命の営みを永続することができている。つまり私たちの人間界はそもそも自然界の命の営みの中で人間界という人間文明だけの世界を構成しているということになっている。

例えば、人間界同様に野生にはそれぞれの世界があり、サル界をはじめイノシシ界、スズメ界、鯉界、杉界などなど、書けば膨大な数になるけれど名前をつけられるほどに様々なそれぞれの世界は自然界の一部として日々に生まれてはまた消えているのであろうとも思います。

その中で私たち人間界も同じく存在しているのですが、今の課題はその自然界がまるで人間界の一部として真逆に見定めてしまうという勘違いが横行してしまっていることなのです。人間界の一部として自然界があるのであれば、前述したようにイノシシ界の一部に自然界があることになります。

それではもしサルがその自然界を独占できるかといえば、複雑に調和で組み合わされた自然をコントロールすることなどは絶対不可能なことで、それはただ一部のサル山のみを征服したことが自然を独占したと勘違いしているだけで全体の自然界から見ればどうしたこともないのです。

しかしそのサル山がいかにも自分たちの自然であると定義し、そこで生活できるように様々な動植物を飼育し人間界での営みを行おうが自由ですが問題はそれを広げ過ぎて地球全土に行き渡りまるで自然を征服したようなことをやろうとするからおかしなことになっているのです。

傍からみれば、動植物たちにとってはサルが何かサル山を拡げているのは分かりますがそれぞれの世界を侵食してサル同士の世界を自然界すべてに網羅しようとしているのは調和というものから反するので問題が起きるのです。もしサルがそれを気づけない環境があるとすれば、サルが本来の在るべき姿を目先に囚われず本質を忘れないような学びを継続していかなければなりません。

なぜ中庸である必要があるかと言えば、自然界の中で存在している人間界なのだから半分は自然界、その一部として存在している人間界での営みが半分なのだからそのちょうど中間にいることを忘れないように中庸であることを学び続けるのです。

言い換えれば、なぜ学ぶのかといえば、自然界の中に人間界として存在させたことでバランスが必要になりそれを忘れないようにするために学ぶともいえます。そしてその人間界が自然界の中で正しく存在できるようにと人間学があるのだと私は思っています。

人間が正しく調和するのは、自然の一部であるからです。

そういうことを忘れないためにも、自然界のことを学び人間界をどうするかを考えなければなりません。今は、まさにその自然界から隔離さらた人間界のみの原理でのみこの地球で営めると思っていますが私たちが気づかない場所にたくさんの野生の生命が存在しているのです。

その野生の生命たちはお互いに一定の距離感を保ち、それぞれを育てているのです。大自然は万物を保育しているのです、だからこそ人間の道として見守ることは何よりも大切なことであると思います。

自然界と人間界での調和のカギは、私たち人間の生き方にかかっているともいえます。まだ間に合うというよりは、いつでも気づいたら改めればいい、しかしそこには正しいことを行う勇気が必要になるのです。 今まで築いてきたものを壊す勇気は、子ども達に譲っていくためだとしそこからもう一度やり直せるかがこの大転換期の肝であると私は思っています。

今年はまだまだまとめていきたいと思います。