志士仁人

人は志を高く掲げ歩んでいく中でその人その人で気づきを得るステージのようなものがある。
同じ人を学んでいても、その人の志の偉大さまではなかなか理解できることはない。

自分の志がその人と同期化するとき、はじめて少しその価値や意義を実感できるのだと思います。

かつてこの国ではたくさんの人たちが生まれまた死に、それぞれの本分を尽くしてくださって今の私たちが存在します。当然、名として残っている人もいればそうではない人もいる、その志のあるところよく目を凝らせば随所に様々な遺業は存在しています。

人はなぜ自分以上のことができるようになるのかは、志の有無によるものです。

志があれば、こだわりが生まれ、志がなければ流されていく、志とはその心に一本立った信念や強い思いがその人だけに与えられた天分に近づけていくのだとも思います。

そしてその志をより一層強くしていくための糧は何かと言えば苦悩や憂慮であるのです。
人は色々なことが起き、それを悩む中で本当の自分の思いに触れそれを守ろうとしより一層強い思いを抱き耐え抜くことで志がより鮮明に立っていくのだと思います。そういうことから最初から逃げて安逸をむさぼろうとするのは志士ではないのです。

志士とは、どうしようもできないことやどうにもならないことにも真正面から向き合ってその苦しみを転じていく覚悟があるから志士だともいうのだと私は思います。

熊沢蕃山の歌に下記があります。

「憂きことのなおこの上につもれかし 限りある身の ちから ためさん」(憂きことよ なおこの上、もっとつもれつもれ。この身でその試練に耐えてみせる。)

自分の身を厳しい環境に置いてこそ、その中でも自分は志を貫くことには変わらないという強い思いが生き方から感じられます。

その熊沢蕃山の思想から紡いだ吉田松陰にもこういう歌が残っています。

立志は特異を尚ぶ、俗流と与に議し難し。
身後の業を思はず、且だ目前の安きを偸む。
百年は一瞬のみ、君子は素餐する勿れ

(志を立てるには、人と異なることを恐れてはいけない、世俗の意見に惑わされてはいけない、なぜなら死後の評価を考えずに目前の安逸を食っているからである、百年の時は一瞬にすぎない、君たちはどうか、いたずらに時を過ごすことのないように)

とある。

人と違うことを恐れないで実行するということは、その人に志があるからなのです。
人と同じことを恐れて、考動できないのはまだまだ志が立っているとはいいません。

自分の信じる道を歩むということは、自分の掲げた理想を追求していくことをいい、それは理念というものを実践し続けて形にしていくのと同じことであるのです。

そのために、 日々のことを大切に取り組み積み上げていく必要があるのだと思います。
最後に、吉田松陰の言葉で締めくくります。

夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし
計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。
故に、夢なき者に成功なし。

志を持ってそれぞれ遣るべきことをやればいい、そう聴こえてくるかのようです。
子ども達のためにも全人類のためにも自分のことを大切にしていこうと思います。