傲慢と謙虚

若気というものがある。

自分の実力もよく分からないのに、他人よりも凄いように見せたり、自分は他と違うのだと露骨に自分から見せようとしたりなどもすることもあった。

自信のなさから私も自分は特別な存在だと自分に言い聞かして、周りを見たりして失敗することも多々あった。若気から未熟なその姿勢があるせいで周囲からは嫌われたり、軽蔑されたりもしたこともたくさんあった。

それでも特別を自分に言い聞かしまるでそれを隠すように演出をして、自分をより大きく見せようとしたりしたものです。ただ年を経て、本当の実力がついてくるとそういう気持ちはなくなってきてより他人の凄いところが感じられるようになってきます。そして次第にそういう他人も実はもっと凄いではないかと思えるようになり、竟には自分もこういうところが凄いのではないだろうかと思えるようになってくる。

不思議と他人と違う、自分が特別ということを思うにしても、相手に矢印を向けて自分は普通の人ではないというのと、自分に矢印を向けて自分は普通の人ではいけないというのではまったく意味も意義も異なっているのに気づくのです。

何が言いたいかといえば、「自分が普通の人よりも特別と思うのは間違っていることで、自分が普通の人と同じではいけないのだ」と思う方が本来の自分への叱咤激励であるのだと思います。先の方は、傲慢で高慢なだけで、後の方は、謙虚に自立しようとしているのです。

先日、また吉田松陰先生との邂逅の中で先生が18歳の時に詠んだ覚悟に出逢いました。

そこにはこうあります。

「自分は、俗人ではないと思うのは間違った考え方で、俗人と同じになってはいけない、と考えるのが正しい。自分を俗人と区別する考え方の中には、おごりたかぶる姿勢があり、後者は激しく奮い立つ姿勢である。」(未焚稿より)

よく自分は他人とは違うと自分を語る人はたくさんいるし、そういうふうに心で思っている人にもたくさん出会います。それが志からのものであるのならば、本来は自分は他人と同じではないけない、もっと自分を奮い立たせて努力精進しなければと自分を特別に律していくことが本来の姿であるのです。

私も大いに反省したのは、自分は特別だと思うところのどこかには普通の人ができないことをできるのだと言い聞かせて特別なのだと思いたい自分がいるのです。それでは、決して本来の自分を特別だと努力していくことはできません。

自分が特別だと思うとは、自分が普通の人のように目先だけの安楽や安逸を貪り怠り、楽をして甘えて時間をただ浪費したり、世間の風潮に流されたり、大衆の一般的な価値観に囚われてしまい、自分らしく生きていくことを諦めてはいけないと自分を奮起激励していくことのためのものであるのです。

普通であるかそうではないかの自問自答ではなく、普通になってはいけないという流されてしまいやすい自分に檄を飛ばすのが本来のその言葉の使い方だということなのです。

普通とか普通にできるできないとか、それは全部外の世界の比較対象の中で少しでも自分が価値があると思いたいということになってしまえば、自己満足で止まってしまうものです。

当たり前のことを当たり前以上に行う人や、普段なかなかできそうできないことに丁寧に丹誠を籠めて行う人や、すべての日常に思いやりや真心で仕事に取り組めることなどこういうことができる人こそが謙虚に正しく学問をしているともいうのだと思います。

まだまだ気づくことばかりの日々です、実践を増やし普通ではいけないと志を心にしっかりと定め克己奮起して学びを正していきたいと思います。