利の元は義

自分を含めた一人以上の組織というものは、社会に対して何かの責任を持っている。
自分自身が社会の何の役に立つのか、それを思わなければそこに大義は立つことはない。

そういうものを思わずに、目先の損得だけで判断するのは自利を追うからでもあります。
しかしこの自利と義理には大きな隔たりがありますが、当人は気づかないことが多いのです。

前者の自利は、全体が自分にとってどうかといった自分が世界の中心としての考え方であり、後者は自分の存在をが全体の一部として見た時に自分が何の役に立つかといった考え方であるのです。

日頃から、何でも自分の思い通りにしようと思っている、もしくは思い通りにならないことばかりを悩んでいる人は、全体の一部という客観的な自分を理解することができません。その思い通りにいかない執着に惑わされ、全体からの視点や、相手からの視点、自分の本来の使命や役割などといったことを思い出すこともないのです。

しかし、心に余裕やゆとりがあり日々に自分が誰かのお役に立とうや全体のために自分を活かしたいと生きている人は自利を貪らず義理を優先することができるのだと思います。

論語に、「子曰わく、君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る。」がありますが、これは本物は大義に生きて、偽物は利に生きるといった意味です。周りの環境に流されて自分が偽物にならないように常に本物の生き方として全体のお役に立とうといった自分への啓発精進が必須であろうとも思います。

そしてこのお役目を必ず果たすということを思うことが、責任というものであろうとも思います。
このお役目というものが、道理を踏み外さないことであろうとも思います。

人間は、つい自分のお役目を忘れて自分の都合よく解釈しようとするし、自分の責任を放棄して目先の損得で判断してしまうことがあります。しかしそもそも自分がなぜ働くのか、なぜ仕事をするのかの本質を思えば、即ちそれは何らかの社会に対する責任が生じることを理解するはずです。

自分の都合で働くのではなく、社会があるからその役目の一端を自分が担うからはじめてそこに大義が立って正しい利益を得ることができるのであろうとも思います。利の元は義ではないですが、道理に沿った正しいことをして、正しい利益を得ようとするのが道徳と経済の一致であるのです。

いくら儲かるからと道理を外せば、それは社会的な責任を放棄しているのだからそのような組織は必ず道理に反した結果が跳ね返ってくるのだと思います。常に、自らが全体を観て如何に社会的責任を果たすか、また自分の持っている仕事の責任を最期までちゃんと果たすかのみを思い、そのために利益というものを正しく得ていけばいいのだと思います。

これは理念を掲げている以上、まずはそれを実践することで大切な初心を失わず、いつも自分で責任を持って仕事や会社の役割を果たすという結果が本来の義と利の調和であろうとも思います。

子ども達のためにも、偏らないように気を付けていきたいと思います。