改善の本質

素直な人は、いつも先に自分から受け容れようとする姿勢がはっきりしているように思う。

例えば何かの事象でも今の悩みなども自分がまず自分から先に受け容れようとしなければ他人の話は額面通りに聴くこともできないし、表面上だけを上滑るものです。素直な時は、いつも自分から改善しにいこうとしますが、そうでないときは他人から言われるばかりになりしかもそれをいつまでも繰り返し聴かされていたりします。

自分のこだわりや自分の我からの執着が強ければ強いほどに、自分から素直に聴き容れようとするのではなくただ聞き流そうとするのだと思います。

そう考えると、素直かどうかを思うとき、どれだけ自分から現実を受け容れ、ありのままの自分に寛容であるかというのは大切な事であろうとも思います。仕事でもそうですが、自分がこれは嫌だと思っている部分であったり、これは避けたいと思っていること、もしくは何かしら自分に都合が悪いと思っている話はやっぱりよくよく自他を観察すると素直に聴いているようには見えないことが多いのもこの理由なのです。

今の自分がいくら頑張っても何ができて何ができないのか、その理由、そしてなぜかということもありのままに聴き容れることができればそれで問題は解決することが多いのです。しかし問題がいつまでも先送りされるというのは、聴き容れないから聞き流すことになり先送られるのだとも思います。

今、そうなってしまった現実を如何に受け容れるか、それは失敗からどれだけ学ぼうとしているかに由るのです。つまり失敗というものを悪いものとして考えるのではなく、失敗は次への学び、成長の証であると思えるかということなのです。善いものと悪いものがあるという時点で正しく学べず、正しい学びとは善悪問わず学びにしていくこと、そしてそれが改善の本質であろうとも思います。

成功も失敗も常に学びであると定義されれば、如何に現実を改善しようかと何度も振り返り直していけばいいのです。それを成功で有頂天になり、また失敗がいつまでも受け容れられないとなっていては、両方ともその学びから逃げることになり改善されないままになってしまうのです。

一般的に失敗がよくないものになるのは、過去に深く自分を責めたからであろうとも思います。

自分を責めすぎた分、自他を責めすぎそうしているうちに失敗は学びではなく悪いものになったのです。成功も失敗もその過去に囚われるのは今に前進し続ける勇気を減退させてしまうものです。

だからこそ、どんな時も失敗は学びであったとし、その失敗を次に活かすことで過去の出来事の敵討ちをしより一層貢献しようと転じたところに真の素直さがある気がします。同じように成功も、どんな時も成功は学びであったと、その成功から次に何を活かすかで同じく過去の出来事の感謝をより一層の貢献に転じようとするところにもまた素直さがあるのです。

改善するとは、常に学び続けていくということであり偏らないということなのです。

つい今までの刷り込みに負けてしまうことも多いですが、学びを次に活かすことを優先する実践で子ども達にも希望を拡げていきたいと思います。