確乎不抜の志

いつも思うのだけれど、何かを遣り切るということは何にもまして大切なことであろうと思います。よく負け癖などといったものや、最初から何もせずに諦めてしまうというのは、途中で止めてしまうからだと思います。日々の継続というものも、なぜ初心を忘れるのか、なぜやめてしまうのかと思うのです。

他人から言われたから何かを遣るというのがあります、しかしそれは自分が決めたから遣ることになっているはずなのにそれを言い訳にしてしまえば逃げることを用意しながら進むということになるのです。

自分で決めないというのは確かに楽な方法です。
自分で決めたことでなければ、何かがあれば何かのせいにできるからです。

しかし自分で決めたのならば言い訳はできません。
そう考えると、やっぱりこう思うのです。

負け癖というのものの最も善くないこととは、途中で諦めるということに他ならない。
正確には負け癖ではなく、自分が遣り切ることをしなくなること。
つまりは、自分を信じる事ができなくなる癖であるのです。

人間は何かに取り組む時、強烈な意志の力で例えこの身が砕けようともといった徹頭徹尾、貫徹完遂するかは大事なところです。

その最初の思いが強ければ強いほど、発奮奮起し何が何でもという気概が生まれます。
そしてこれを確乎不抜の志とも言います。

それがない人では、決して何かを成し遂げることはできないのです。

易経に、「初九に曰く、潜龍用いることなかれとは、何のいいぞや。子曰く、龍徳ありて隠れたる者なり。世にかえず、名を成さず、世をのがれてうれうことなく、是とせられずしてうれうることなし。楽しむ時はすなわちこれを行ない、憂うる時はすなわちこれをさる。確乎としてそれ抜くべからざるは、潜龍なり」

とあります。

一体何が足りていないのか、答えは明白なのです。現実を正しく受け容れるたびに初心から省みて自らの志に浩然の気を纏い、至誠の檄を飛ばしていこうと思います。