かんながら人

現在では、西洋人と東洋人というように西と東で括られて語られています。

しかし私は、そしてその中間に私たちの祖先、古代のかんながら人というものがあると定義している。なぜなら、もともと私たちはどのような生き方をめざし、どのような暮らしを行ってきたかと思えばそもそもが同じではないのはすぐに理解できるからです。

何でも便利に大きな分類にして言葉を定義しますが、そこが大きな間違いなのです。どんな小さなものにも霊性は宿っています、特に私たちの民がとても小さく可愛い物が好きなのもそのようなことからなのです。

はじめから分かれているものを無理やりまとめていてもそれでは多様性を否定します。

例えば、今の日本の職業分類もそうですがこの国はあまりにも職種が少なすぎます。

官公庁の都合で職種を分けますが、本質が何かを考えないからおかしくなるのです。
異なるものを同じように扱うから職業もいつまでたっても多様化しないのです。

以前訪問した国では、職種が1000以上あったところもありました、まだ増えています。
その方が色々な仕事があることを知り、そしてまた社会に新しく創ろうとしていくものです。

何でも国の基準にあわせ上位下達にやろうとしては必ず組織は硬直するものです。

話が戻りますが、そもそも「かんがながら人」とはどのようなものでしょうか。

神道では、すべての物や事、例えばそれが石から植物、水、空気、火や土、様々に加工されたものまでにいたるまですべてに「霊性」を持っているものとしていのちの中での繋がりを持ってきました。

今、着用している衣服から目の前で食べているもの、住んでいる家、このパソコンもそうですし、それは眼にはみえない人の思いやりや気づかいに至るまですべてそういうものから等しく霊性を感じることができる民族であったともいえるのです。

よく今の時代は、スピリチュアルやスローなどと言われますがもともとあれは西洋から渡来してきた言語でありそもそも私たちがいうような自然というものや自由という、「自ずから」というものとはその言葉の定義もまったく一線を画しているのです。

西洋では、自然は征服するものとして捉えています、神との契約や神が生んだという社会の思想と、私たち東洋がもともとあったや、あるがままの自然に溶け込むといったような在る無しを超えたところで絶対的に存在している自然ののことなどはわかっているはずがないのです。

そもそもの「自」というものが異なっているのです。それなのになぜか外国の言葉を使ってわざわざ自然を理解しようとするのはあまりにもナンセンスであろうとも感じます。

私たちには、もともとの暮らし、かんながら人としての生き方というものがあります。

それはいのちの廻りを通して、そのもの循環と一体となっていのちそのものが廻りつながっている中に共に棲むことです。そのために澄んだ心を持ったままに日々に貢献しあいながら一つの道を協働で歩み続けていく豊かで平和な生活スタイルこそが本来の私たちの在り方そのものであったはずなのです。

今のように急速に西洋化されていく世界で急速にバランスが壊れていく怖さを思います。

ここでそれぞれの人々が、それぞれの人々の役割を果たすためには多様化している人の暮らしを認めていけるような社会を構築しなければならないのではないかと私は思うのです。私の思うかんながら人はその自ずからの個性そのままの状態のままでいることがその人らしいということなのです、それを認めあえる社会がそもそもの私たちの民の根本理念です。

子どもたちが何を持って自然か、子どもが何をもって当たり前の暮らしなのか、それはもともとの私たちの暮らしに根付いているところから見直す必要があるのではないでしょうか。

社業を通して、何が何でも私たちの祖先が大切にしてきた働き方や暮らし方を具現化します。
決意新たに、確信を持って前に向かっていこうと思います。