生きものという人

何か問題を解決するとき、自分だけではできないということがある。

これは自分以外の誰かに協力することでしか解決できないという天地人の道理があるように思います。自分の問題を解決したければ、誰かの力を借りる必要があるし、誰かの問題を解決していたら気が付いたら自分の問題も同時に解決しているものです。

つまりは、鏡のように相手は自分で自分は相手と思えるかということになるのです。

論語に、「己所不欲、勿施於人」がありますが、自分がされたくないことを、他人にするべきではないということですが、孔子はいつも逆説的な言い方をしますのでこれを言い換えれば、自分がされたいことを他人にしてあげればいいという意味でもあります。

そしてこれは安易な解釈でも理解はできますが、大前提に相手も自分、自分も相手、人はセットで成り立っているということになるとさらに意味が深まるのです。

例えば、誰かがとても困っているとします。それを自分がその人と同じ気持ちになって思いやり誠心誠意尽くしていけば次第にその人の問題は解決に向かいます。そしてそうしているとき、相手の姿から学び、思いやりの共鳴を実感し、次第に自分の心が溶け込むように相手との一体感の中で自分自身の体験のようになっていくのです。

自分自身の体験とは何かといえば、実体験のことですがそれをどれだけ自分が学んでいくのかが人生の命題であろうとも思います。しかしそれと一人で閉じこもって自問自答するのと、自分以外の誰かに貢献して取り組むので歓びも感動も豊かさも数十倍になっていきます。

人は自分だけで生きているのではなく、誰かと一体になって生きているのです。

だからこそ、例えは自分の問題を解決するために自分だけでもがくのではなくお客様のために全力で貢献努力をしたり、周囲の仲間が何が困っているかを聴いて助けに入るだけでも自分の問題は解消されていくのです。

法則としても、奪うよりも与える方が得られることが多いのです。
自分の方へと寄せようとする行為は、すべて奪っている行為ですから好循環しないのです。

貢献を思うのは、自分が相手だと思いやれるからだと私は思います。
気が付けばいつも相手が自分に見えるようになれば少しは実力がついた証拠だと思います。

これからも精進していきたいと思います。