本気=好き=素直

先日、ある採用面接がありその方の就職活道の相談に乗らせていただきました。

今の時代は自分のやりたいことが分からずに彷徨ってしまうことがよくあります。これは社会がその人のことを尊重しないことにより、その人が自分で自分を大事にできなくなることから自分のやりたいことが分からなくなってしまうとも言えるのです。

人は自分が本気になりたいといつまでも苦しんでいる人がいます。

どうやったら自分が本気になれるのかと、悩むことは自分探しの旅の第一歩であったように思います。自分が本気かという問いを持つときは、私は自分が本心から好きかどうかということに中るのだと思います。

本気というものは、我を忘れるほどに熱中するということでそれは同じくして大好きなことをやっていれば人は自然に我を忘れて熱中することを言うからです。

本気というのは好きだということで、本気になれないのは好きではないからなのです。

好きというものには色々とあります。それは好きか嫌いかという自分の感情的なある条件下でのものともう一つはそこまでしてでも好きなのかというまるごと無条件での好きというものです。

前者の好きは何かと比較しての好きであり、後者の好きは本心からの素直の好きなのです。

好きなことに気づかない人は沢山います、それは常に自分への問いではなく周囲や外界の環境や条件や状況から分析してきっと好きなのだろうと自分が思い込んでいるからです。しかし実際の好きとはそのような理屈はなく、自分自身の心に問い心底それを素直に好きなのだと全身全霊の求めるものに向かっているものであるのです。

この好きというものは、自分が素直でなければ出会えることがありません。

自分の心に正直に、好きなことをやってもいいんだと自分を認めてあげることができて出会う境地であるのです。どこかで言い聞かせたり言い訳をしたりしてしまえば、そのうち素直さが消え感動が薄れ次第に自分が好きだったことを忘れてしまうのです。

好きでいるというのは、いつまでも素直でいるということなのです。
そしてそういう人だけが求道者になり天命に出会い、使命を果たすことができるのです。

だから私はいつまでも新鮮な気持ちで好きでいられる実践として、遣り切るようにしています。

いつまでもどんなことも遣り切るというのは、素直なままでいることになっているからです。
ちょっと体力がつらくてもちょっと精神的につらくなっても、それでもやっぱり好きと思うのです。

好きかどうかは最期までやってみなければわかりません。
それは自分の心に素直でいたいという初心の実践を積んでいるからです。

途中で辞めてしまうのは、好きなことに出会えないとも言えます。
矛盾しているようですが、素直にやっていれば自然に次は顕われます。

人は素直で在り続ければ自然に道は開いていくからです。
常に自分の選択した道に対して謙虚にいることを忘れないでいようと思います。

また多くのことを気づかせていただきましたし、遠方から来ていただき少しでも力になりたいと思っていました。これからまだまだ前途ある未来が豊かに開いていけるように、心から祈念しています。

お互いに好きなことに邁進していきましょう。

 

好きな自分でいるために

日本の政治を歴史と照らしていると、どのような状況なのかというのは見て取れます。

どの時代も、理念や理想を掲げた実践を行うことを怠り嘘と嘘で成り立っている社会を構築すればそれはそれで成り立ってしまうのだろうと思います。

正直に誠実にやっている人からすれば、なぜ言行が一致しないのだろうかとすべては見透かせます。しかし政治の中心にいる人たちは、そもそも言行は一致しなくてもいいところに立脚してそれが御互いに当たり前になっているのだから虚偽同士なのだから問題ないのです。

マニフェストにしてもそうですし、制度もそうですがあれだけ話をしたのは何だったのかと思ってしまいます。例えば、6時に待ち合わせと約束しておきながら6時59分に待ち合わせ場所に来て6時代は死守できたからと言い訳しているようなものです。

こういうものが成り立つ関係というのは、御互いに時間にルーズな人たちだから成り立つのであって正直に6時に来ている人からすれば嘘をつく人と言われてしまうのです。

他にも正直に誠実に決めたことを守る人からすれば、何かにかこつけて言い訳ばかりする人のことはすべて虚偽に見えるのです。もともとその人が言い訳ばかりする仲間うちで生きてきたのであればそれはいいでしょうがそうではない人たちと生活すればそれは嘘つきのレッテルがすぐにはられるはずなのです。

学生時代にそういう人を信頼しないでもいいような友人たちと一緒に過ごしていたら、約束を破ろうが嘘をつこうが、盗人のように借りたものを返さなくてもそれでもその仲間たちは同じ穴のムジナなのだから自分が不徳の人同士だから自然にそれで成り立ってしまうし違和感もないのでしょう。

しかしもしも正直で誠実に生きている仲間の中にその人が入れば、すぐにその人はその仲間では成り立たなくなります。なぜなら時間は破る、嘘はつく、他人のものは平気で盗む、誰かのせいにする人になってしまうからなのです。

自分が生きている場所でその人の生き方というものが決まります。
そして自分が決めた生き方があるから次第に仲間が変わっていくとも言えるのです。

どの現場に自分の身を置くか、またどちらの自分が誇りに思えるか、やはり人は好きな自分でいたいと思うはずなのです。自分が不誠実で不徳である生き方が好きだという人はいないと思います、誰でも人を愛し愛されたいと思っているからです。

だからこそ、自分が好きでいられるように正直に誠実にいようと覚悟を決めて生きることが人生を変えていくということでもあるのだと思います。正直で誠実な真心の人達と接することは、一度しかない人生を最幸のパートナーとの出逢いに満ちています。

自分自身は実践を重んじ、常に理念に恥じないように誰のせいにもせず、何かの言い訳もしないように、常に正直な自分の方、真心の日々を貫いていきたいと思います。

生きものたちの空気

目には見えないもののなかに空気というものがあります。

私たち生き物は、その空気というものをなくしては生きていくことはできません。他にも水や土、光や風、また温度などもありますが、あまりにも共通している重要なことは改めて思うこともなく当たり前として存在しているのです。

しかしこの当たり前ということが、環境においては一番重要だったりするのです。

自然というものを学ぶとき、一番先に感じるものが空気です。

自然に近づけようとすると、たくさんの善い空気があるところで呼吸できるような環境を用意する処から始めます。それは鶏であろうが魚であろうが、そして微生物から植物や虫、動物にいたるすべてのいのちには空気が必用です。

私にとっての空気とは、多様な生物が呼吸する代謝が豊富であるところという定義にしています。なぜなら私たちの呼吸とは様々な生物の代謝によって存在しているからとも思えるからです。

たくさんのいのちが回り逢う中で、私たちすべてのいのちが共有しているものが空気です。

その空気とは、生きているということであり、生きているときに発した呼吸が積み重なって織り合って存在しているものであるからです。

例えばコンクリートの密閉された生きもののいないような無機質な中では、呼吸というものは行われません。そこに様々な多様な生物やいのちがめぐるなかではじめて呼吸による空気が生まれていくのだと私は思います。

それなのに、私たちは新鮮な空気とは単に外の空気だと思っているところがあります。
そうではなく、多様な生きものたちが呼吸している中であることが本来の空気であるのです。

それが自然界や外には縦横無尽に存在しているというだけで、人間が作った限られた密室空間の中では味わえないということなのだろうと思います。美味しい空気は、多様な生きものたちとの共存や共生の中ではじめて観得てくるのだと思います。

オゾン層の破壊などのことを考える前に、もっと多様な生きものたちが安心して暮らせる環境をどうしていくか、それは自分たちがいつまでも美味しい空気、豊かな空気、幸せを感じる空気を実感できるよう努めていくことだと私は思います。

そしてそれは人としての生き方に関係してきます。

自然な生き方や人間として徳の高い生き方をしている人の近くや傍の空気が心地よく感じられるのも、それはその人の生き方ともいえる代謝としての空気を味わっているからなのです。この目には見えない空気というものは、共に呼吸し合ういのちを互いに活かしあうのに多大な影響を与えているのです。

あまりにも絶対的な存在に目を向けること。
これからの時代は、そのことを私たちはもう一度温故知新し学んでいく必要があります。

自然に学ぶ基本を何にするか、かんながらの道は光が照らしてくださっています。
これからもまだまだ自然との邂逅を感じていきたいと思います。

農の実践

昨日は、京都農園で自然農での田植えをカグヤクルー全員で無事に行うことができた。

大雨の予定が、ちょうど私たちが到着すると天候が変わりポタポタと優しい雨の中で終始作業ができ、当たり前のことだけれど当たり前ではない様々な恵みに深く感謝しながらの一日になりました。

ここは1反以上ある田んぼで、元々は台風で破壊された土地をもう一度少しずつ手入れをして何とか再生したところです。同志が子ども達のためにと、精魂込めてもう一度開拓するつもりで長い時間をかけて取り組んだことでもう一度お米を育てることができるところまできたのです。

はじめは、遣ろうとする決意だけですがそれを支え、共に助け、共に信じ合いながら取り組む中で奇跡とも言うべき出会いを体験していくことができます。多くの導きや援けの中で、如何に自分たちが自然の中で生きていること、何が不自然であるかなども学ぶのです。

自然農では、機械などは田畑に持ち込みません。機械をいれることで、様々な自然の営みを感じる事も出来ずまた味わい深い豊かさを実感することができなくなるからです。

私たちは何でも一人でやった方が善いというような価値観を明治以降に植え付けられました。
作業効率や経済効果を優先され、その結果、オートメーション化というか機械だけではなく人までそういう消耗するロボットのように配置されて働くようになったのです。

そのことから、田んぼに関わることもすべてはトラクターはじめ様々な機械を使って一人でもできるように自動化されていったのです。今では、除草などをはじめ全ての作業を機械があれば一人でもやっていけそれでたくさんの収穫を得ることができるようにもなったのです。

昔は、手植えで田植えも行っていたし除草や収穫などもすべて近所の人達や子ども達、お年寄りまで総出で田んぼに集まりみんなで力を合わせて取り組んでいたのです。そして収穫したものを皆で分けたり、また手伝ってくれた方々への御礼もその田畑の恵みを分け合うことでまた絆を深めていたのです。

今回私たちが福知山へきて田植えをするのは、農業体験などではなく自然に自然の農というものを学ぶために来ているのです。それは共生するということ、一人ではできないからこそ皆で助け合ってみんなで協力して一体になって取り組むということを行うのです。

田んぼも一人でやろうとすれば、様々なことは大変なことだけになってしまいます。しかし、みんなでやればその大変こともとても楽しいことに変わるし、苦労もまた素敵な充実感や貴重な思い出にも変わるのです。

私たちの祖先はみんなそうやって田んぼでお米を育てて食べるということを通して、人々と協力することあらゆるものと共生することをずっと大事にしてきた民族であるのです。

それを田植えという体験を通して学んだ一日になりました。

自然の前に独りで立ってみてはじめて人の有難さ、そして仲間の素晴らしさ、生きものたちの美しさを実感することができるのです。子ども達に何を遺したいかではなく、そもそも私たちが変わらずに自然に大切にしてきた人としての在り方なども生き方と働き方の一致の中で伝承していきたいと思います。

繰り返される悠久なる自然の中で、世代を超えた偉大な責任を肌で感じています。

夢から現実へ

昨日、ある学童保育所「めぐみ精舎」の開設にあたり「いのちの根っこを育ち合う場」という理念に対してどのようにするのか、私たちの提供した協働遊びを所内でどのように活用するのかについて話し合いました。

理念というものや夢というものは大きいので、それを具体的にしていくときどのような方法と道筋で行うのかなどを定めていくことで具体的なロードマップが現れてきます。

人は目標というものやゴールイメージというものを持つことで、より自分が今何をすべきなのかというのを自覚するのだと思います。自分から何をすべきかを自覚することができれば、後はそれをどのように皆と一緒に取り組んでいけばいいかを話し合って決めればいいのです。

古今東西、皆で協力するというのはまず理念ありきで目標がその次、そして具体的な方法という流れで進めていくのだと思います。

昨日は、根っこを育てるという理念の下、如何に居心地の善い施設にするかということ、そしてそれは具体的にはどうするのかについて議論しました。

いくつかの具体的な自分の実体験や事例を一円になって話し合いながら、その具体的な方法やアイデアを出す中で「子どものやりたいことにどこまでOKをだせるか」というものに絞られることができました。

後はそれをちゃんとできるように仕組みを用意するということで、チェックリストや毎月1つ実現するような計画をルーティンしたりと定めて終了しました。

何かをやろうとするとき、まずどこから入るか、そしてどこへ向かうのかというのは重要です。なんとなくぼやけたままで進めているから誰も夢物語のままで遅々として進まないのです。私心を交えずに皆の意見を尊重しながらそれを整理していくことで、皆の本当にやりたいことが観得てくるのだと思います。ファシリテーションをする人というのは、誰よりも皆のことを手伝いたいという真心の発露が最もそれを実現可能にするのだと思います。

素直にやりたいことをやれる人こそ、素直にやりたいことを実現できる人ということでしょう。

最後に、この新しい学童保育では如何に子ども達だけではなく老若男女にいたるまで居心地の善い場所にするために自分の夢ややりたかったことにどれだけやってもいいよとするかということで共通理解を取りました。

人が安心するとき、自分が「丸ごと」認められたと感じるときです。
そしてそれは、自分のやりたいことを皆が手伝ってくれたときなのかもしれません。

今の人間関係の疲れとは、御互いを認め尊重し合わないことからきているように思います。外で認められないからこそ不安になり、そのことから痛みを怖がるようなり、次第に心を閉ざし人といることに疲弊してしまうのです。一人になりたい人が増えているのも、あれもだめこれもだめというように社会全体が閉塞感に満ちてしまっているからのように思います。

夢から現実になるのは、もっと自由を認めて解放しなければそれは実現しないのです。いただいたご縁と機会を活かし、アイデアを私たちも社会へ還元できるように社内でも企画していこうと思います。

実体験こそ

素直に思えばこの世の中はおかしなことに満ちています。

そのおかしなことに気づかないことで様々なおかしなことが起きていることに気づいている人は多くはありません。私たちが特に悩み混乱するのに、教わるというものがあります。朱子学や陽明学などではないですが、昔から知識が先に横行するようになると、同じような問題が発生しそのことから真実を解明していくような葛藤は何度も繰り返されるのです。

特に今の時代も同じく、様々な情報が先に行き渡りそれを体験する量が減っていくという現象が起きているのです。

何かの立派な経典みたいなものも、それは体験するうえでの指標のようなものの一つであり別にそれを記憶して暗記してそれをテクニックとして使うようなものではないのです。

学校でも今は先に答えを先生が用意して、生徒がそれを答えるという教え方をしていますがこれでは実際に人生で役立つことを学んでいるとはいえません。人が共に生きるということも、それは単に知識として教わってできるのではなく、それを実体験して自分のものにしたからできるのです。

そしてその実体験というものが、生きる力というのです。
生きる力を育むとしているのに、子どもに体験させないような教育というはおかしなものです。

先日もおかしなことに気づいたのですが、言葉というものを考えてみてもそうです。

人を深く愛するという言葉一つでも、どのようにすれば深く愛するのですかとは学校でも先生が言葉で具体的に教えることができます。例えば、相手の気持ちになってや、その人の身代わりにや、証明するような犠牲を払ってもなど、言い方なども多種多様に話をしますがそんなものは実際に自分が深く愛するような体験をしなければ分かるはずがないのです。

それを先に知ってしまうことで、何かメリットなどはあるのでしょうか。
脳で疑似体験したものにはその人の真実はありません。

自分の人生の中での愛というものは、それぞれにまったく異なるものだからです。 しかし今は誰もが愛といえば知っていることになるのです。ドラマやテレビの影響もあるのだと思いますが、先に知ってしまうのです。

この先に知るというのが答えを先に聴くというのと同じなのです。

その時点で自分にはできるやできないと判断してしまい、自分の思い込みで選択すると純粋にそれを実体験する機会を失ってしまうのです。答えを誰かが持っていると思えば人は間違っているのではないかと不安になるものです。

答えというものは、本当はないのです。

誰かの答えをなぞるように生きるのは、単にロボットや機械のように操作されて生きるようなものなのです。そういう教育に負けてしまっては、人と生きる幸せや人として感動して感激するような生々しい生身の自分を味わっていくことができなくなるからです。

今は、特に自分からそういう刷り込みに負けないような力を持っていなければなりません。
つまりは得た知識を常に自分から消去し続けるような実体験を積んでいくことが肝心です。

自ら恐れずに目標を定めて行動するとき、はじめて力がつき育つ歓びを知るのです。
育つということは、とても幸せなことでそこには感じて掴みとるという味わいがあります。

生きているという実感は脳みそだけでは得られず、それは心で感じるからなのです。
知識が心の出番を奪うような教育は、幸せを目指しているとは言わないのです。

自分から自主的に主体的に人生を生き切る人は、誰の意見もどのような答えもそれは冒険心を駆り立てるワクワクドキドキするような好奇心の一端にしかならないのですからどんどん積極的に心の赴くままに実体験を求めていくことだと思います。

誰も分からない世界は自分から掴み取る。
好奇心こそが、今の世の中を変革する大きな奇跡になると思います。

子ども達を信じます。

 

禍信

人は自分が誰かの役にたっていると思うとき、幸せを実感するものです。

そしてそれが偉大なことへの協力や、大切であることへの参画になれば余計に自分の生きがいや遣り甲斐を感じることができるのです。

人は自分の力を頼りに生きる人と、人の力を頼りにできる人がいます。

自分の力だけで何とかしようとする力とはとても弱く脆いものです。自分の力だけで何とかなる範囲でやることはその範囲内でしかやり遂げることができません。いくらその人が偉大な天命を授かったとしても、それを自分だけでやろうというのではそれは真に発揮されているとはいわないからです。

自信がある人は人に無条件で頼ることができます。それは人を信じているからで、人を信じる事ができる人は自信があるのです。

自信がない人は人に無条件で頼ることができません。何かの理屈をつけては、それだから頼ろうとしたり、いちいち指示命令することで人を使おうとするのです。しかしそれは人を信じていないからでそういう人が次第に周囲の自信を奪っていくのです。自分の自信を奪っていくような人とは誰も一緒にいたいとは思わないのです。

もともと自信とは、自分は一人ではないと感じているということだとも言います。
自信がない人は、結局自分は一人孤独なのだと感じているということにもなるのです。

自分だけでやってきたことは何一つはないはずなのです。
誰かのお力をお借りしてきたから今があるとも言えるのです。

今の自分があるのは、何の御蔭であるのか、何の力をお借りして成り立っているのか、自分ができないことは他人に頼るというのは自分の力に過信しないということでもあるのです。

過信の過は、禍の過になり、その分度がいき過ぎているということであるのです。
節度を保つには、礼節を重んじ、自分の力に過剰に過信しないことです。

多くの人達の御力をお借りし、多くの衆智を集めることで大きなことははじめて成ります。
なぜならそれが幸せなことで楽しく豊かなことであるからです。

人は人と生きることではじめて、生かされている実感と生きる歓びに出会うのです。
まだまだ私も本当に未熟で経営から多くを学ばせていただいてばかりです。

大切なものを守り愛し続けるということは、自分の観方を変えるということに他なりません。

道のりはまだまだ長く、これからも永遠に続くものなのだから、常に気づいたらその時にすぐに改められるよう、くよくよせずに常に今の自分を自らを新しくしていこうと思います。

歩む

本人が本当に幸せかどうかという基準がある。

誰かが決めた人生や、誰かから期待されるような自分では本心の底から幸せを実感することはできません。

今の自分が本当に幸せかどうかは、自分で決めた自分の人生を生き切る時にこそ感じることができるのです。人は皆の幸せを望むことで、沢山の人達からリーダーだと認めてもらえるようになるものです。しかしそれは、自分がそうしたいからやるのか無理をしてやるのかでは同じやっているのでも意味は異なります。

自分自身がこうあらなければというものは、自分の感情や自分の本心からやろうとするのでは楽しみも歓びも異なってくるのです。これで幸せなはずだと言い聞かせるようになっているのならそれが自分を我慢しているという証拠であるのです。

いくら周りから見て幸せそうに見えたとしても、幸せは本人が決めるものです。

満足する生き方をするというのは、自分で決めたことを遣り切るときにこそ実感できるものです。それをどこか誰かのせいや何かのせいにするのは、どこか素直ではない心が出ているからだともいえます。

人は素直になれば、全ての問題は自分にあると気づき謙虚に見つめていくことができます。
そうではなくどこか素直になれないとやはり問題を転嫁して気づくこともなくなるのです。

自然美というものがあります。

それは自然の中で自然に生きるものが美しいと感じるようなものです。
あの草花もそして木々も、様々な虫たちも一生懸命だから美しいのです。

自分を生きることを我慢しているものはどこか元気がないので美しく感じません。
生長するというのは、常に自分の全身全霊を発揮することです。

そしてそうして新しい一歩を歩むと決めて歩む時、幸せを感じることができるのです。

最後に水前寺清子の「三百六十五歩のマーチ」の歌詞を思い出しました。

「しあわせは 歩いてこない だから歩いて ゆくんだね
一日一歩 三日で三歩 三歩進んで 二歩さがる
人生は ワン・ツー・パンチ 汗かき べそかき 歩こうよ
あなたのつけた 足あとにゃ きれいな花が 咲くでしょう
腕を振って 足をあげて ワン・ツー ワン・ツー
休まないで 歩け ソレ
ワン・ツー ワン・ツー ワン・ツー ワン・ツー」

同じ気持ちで変化を怖がる人たちへ応援メッセージを発信していきたいと思います。

性根

以前、樹木医のことでこのブログに書いたことがある。

樹のことを診断するのにその根がどのようになっているかを診断するのです。
そこで地中の様子を観て、その根に合わせて環境を整えるというものです。

これは樹だけではなく、すべてのいのちに関わるものはすべてその根っこがどうなっているのかを洞察することで判断していくことができるものです。なぜなら自然界というものは、目に見える表面的なものや、現れている姿カタチはその根が具象化したものともいえます。必ず根があって実ができるものなのだから、当然その実はその根そのままが表現されているともいいます。

多様な植物もすべてはその根がどのようになっているかは、大きさだけではなくその色、そのカタチ、その伸び方、生育のプロセス、得意不得意などからでも理解できるのです。これを人に置き換えても同じで、その性根がどうなっているのかは外側に顕われているのだからそこを理解していけばその本質を捉えることができるのです。

しかしその根がどこにあるのか、その性根がどこに伸びているのか、そこを見抜くことは大変難しいことだと思います。人間のことに精通し、根を観る訓練をすれば多少は課題が見抜けるのでしょうがその性根があまりにも根深いとそれを改善することも同じく難しくなるのです。

植物でいえば、根をほぐすことで新しい環境に植え替えたりその根にあわせて枝葉をすいたりすることでその根にあわせていくこともできます。しかしそこを観るというのは、自分との向き合いが必要になりその根を辿るというのは自分の過去に遡る感情とも正対する必要があるのです。

感情の滞留から自分を閉じ込め、根腐れを起こさないようにしないといけません。

生活改善をやるにも自覚が先です。常に自己受容のセルフマネージメントが必要です。
その自覚を促せるかどうかは、その感情の根深さへの受容と理解にもよるのだと思います。

子ども達の心に寄り添いながら、その根が健やかになるように見守りたいと思います。

選択の主体

人が生きるということは、日々に選択をするということでもある。

何かの事象があったとき、それをどう決断するかで人生は大きく変わっていく。その決めた結果は自分の人生で全責任を持つのだから、決めているのはいつも自分ということになる。

例えば、選択をするというのは二者択一といった相対的にどちらかを選ぶというものと、唯一無二といった絶対的に選ぶというものがある。前者は、どちらにしようかと選ぶとき自分の都合や自分にとってメリットかデメリットなどで選択しています。しかし後者の場合は、今の自分に必要だや必然だからと全て来たものを受け取るという選択をするのです。この場合は、人生の主体がはっきりするともいえ自分自身の人生を丸ごと生きているということになります。

この主体性というものは、一般的にはその反対が受身と言われますが私はそうは思いません。本来の主体性というものは絶対的なもので、それは人生を丸ごと肯定するときに使うものだからです。外界や周りのせい、誰かのせいにしているうちでは自分自身の丸ごとの力と意志で生き切ろうとするのではなくどこかに依存して生きているということになります。つまりは依存性があるといった方がよく、この依存は自分が遣らないことを何かの理由をつけて自分外のせいにしようとする傾向があるということなのです。

もともと活かされているという言葉も、あれは依存の時に使う言葉ではなく自分が全ての人生の主人公であるとし与えらえたすべてを受け取らせていただきますと選ぶのを止めるときにはじめて実感できる境地だからです。

自分の都合で選択をせず、誠実に真心で生きていく中で来たものを全部受け取る謙虚な姿勢が本来の感謝で生きているともいえます。あの動植物も同じく、日々の天候に合わせてすべてを受け取り文句ひとつ言わずに自力を使って精一杯生きています。全てをご縁だとすれば、戴きますや有難うという言葉も、そういう精一杯で言い訳をせずに自らを生きるときにはじめて顕われる言葉です。

精一杯の自力を出していれば、そこに偉大な他力が入りその時機にこそ全体と調和し自らのいのちが見事に発揮されていくのだと思います。

つまり究極の選択とは何かと言えば、選択をしないということだと私は思うのです。

これは来たものに対して全てを引き受けさせていただきますと逃げずに受け容れること、全肯定全受容しそういう自分が主人公で主体となる生き方をするからこそ本来の自分の持って生まれた天命や個性が生き共生が成り立つのだと思います。

何で自分がや、誰かのせいや、何かの生にするのは、そのこと自体が依存であることに気づくことです。そうなってしまったのは、自分で間違った選択をしているからなのです。そうやって生きているのは活かされているのではなく、単に依りついて存在させているといった人工栽培のような状態になっているのです。これでは、自分で生きているとは思えずどうしてもすぐに折れて枯れてしまうような脆弱なものになってしまいます。

自然の中で野生のように生きることは、強く優しく嫋やかに生きていくことが楽しむことです。
大変なことがあろうが、選ばず全て受け取る至誠にこそ生きる醍醐味があるのだと思います。
そしてそれが本来の自然です。

子ども達には周囲の大人の生き方が大きな影響を与えます。
選ばない生き方をすることが勇気であるとし、あの蓮の花のように泥の中から花を咲かせてみたいと思います。

永遠に学びと選びの道は続いています。