偏りを愛する

子どもの頃、発達の偏りがあることで人と異なることは悪いことだという認識を持つようになる。自分が他の子どもと違うということ、それ自体はつらいことではないけれど何がつらいかと言えば理解してくれる人たちがいないという孤独感なのです。

特に学校に入るころからは、自分ができないことばかりが増えて先生から指導され周囲の友達から置いていかれないようにと必死に皆ができることを自分もできなければど半ば強迫観念のように自分を責めて無理をして追い立てていきます。

学校の行事や授業も、自分がどれだけ皆と同じくらいか、つまりは遅れないか鈍くないかを指摘され、違うということは悪いことだと思い込んでいきました。また厳しいことを言われるたびに深く傷つき焦りと不安から必死に勉強し何とかして早く時が過ぎ去るようにと願いつつも乗り切りながら胸をなでおろしたものです。

それが思春期になると、認めない周囲に対して怒りを覚えて自分を貫くことで自分を必死に守ろうとしその間も孤独感は続くのです。そして社会に出ても、如何に平均の中でいるか自分が変わり過ぎていてはダメかということを周りから次々に指摘され続け遂には自分を出さないようにと周囲の期待を演じるようにと身のまわりが囲われていきまた孤独を味わうのです。

そして自分らしさというものは、周囲の無理解の中で消えていくのです。
そしてそれがいつかは復讐心にもなったりし、さらに自らの孤立を深めていくのです。

偏りのある人たちのことをみんなで理解し合う社会ができるとき、それは今の社会がみんな違ってみんないいと思える豊かで平和な思いやりに満ちた社会に変わっていくのだと思います。偏りのある人たちがみんな無理をして、自分を押し殺していけば社会全体は結局は閉塞感が広がり多様性のない画一化されたものになるのです。

そのままでもいいと理解していくことは、自分もそのままでもいいと許していくことです。そしてそれが自他を認めて大切にしていくことだとも思います。それはその人の偏りというものを愛するということであり、尊重していくということでもあるのです。その人の得意を伸ばす、強みを活かすというのもそれは以上のような人という集団の本質を捉えた視点でみるからです。

幼いときから成長していく過程で、如何に皆に自分が活かせるようにしていくか、そして皆もその人の存在を重宝するか、つまりはお互いに無理をしないで自然にいられるかで共生の社会は開けていくのです。

無理に強がっていてもいつのかは我慢も限界が来るものです、今こそ全ての傷を丸ごと癒やす必要があるのです。偏りの大切さは集団を維持するために人類が大切にしてきた智慧そのもののはずです。

これからの子どもたちがあまり我慢しなくてもいいようにそのままの姿を認めていけるようなオープンな関係を築くためにもさらに深く本業で掘り下げていきたいと思います。

平和な社会のためにここを打開することに自ずから使命を感じています。