選択の主体

人が生きるということは、日々に選択をするということでもある。

何かの事象があったとき、それをどう決断するかで人生は大きく変わっていく。その決めた結果は自分の人生で全責任を持つのだから、決めているのはいつも自分ということになる。

例えば、選択をするというのは二者択一といった相対的にどちらかを選ぶというものと、唯一無二といった絶対的に選ぶというものがある。前者は、どちらにしようかと選ぶとき自分の都合や自分にとってメリットかデメリットなどで選択しています。しかし後者の場合は、今の自分に必要だや必然だからと全て来たものを受け取るという選択をするのです。この場合は、人生の主体がはっきりするともいえ自分自身の人生を丸ごと生きているということになります。

この主体性というものは、一般的にはその反対が受身と言われますが私はそうは思いません。本来の主体性というものは絶対的なもので、それは人生を丸ごと肯定するときに使うものだからです。外界や周りのせい、誰かのせいにしているうちでは自分自身の丸ごとの力と意志で生き切ろうとするのではなくどこかに依存して生きているということになります。つまりは依存性があるといった方がよく、この依存は自分が遣らないことを何かの理由をつけて自分外のせいにしようとする傾向があるということなのです。

もともと活かされているという言葉も、あれは依存の時に使う言葉ではなく自分が全ての人生の主人公であるとし与えらえたすべてを受け取らせていただきますと選ぶのを止めるときにはじめて実感できる境地だからです。

自分の都合で選択をせず、誠実に真心で生きていく中で来たものを全部受け取る謙虚な姿勢が本来の感謝で生きているともいえます。あの動植物も同じく、日々の天候に合わせてすべてを受け取り文句ひとつ言わずに自力を使って精一杯生きています。全てをご縁だとすれば、戴きますや有難うという言葉も、そういう精一杯で言い訳をせずに自らを生きるときにはじめて顕われる言葉です。

精一杯の自力を出していれば、そこに偉大な他力が入りその時機にこそ全体と調和し自らのいのちが見事に発揮されていくのだと思います。

つまり究極の選択とは何かと言えば、選択をしないということだと私は思うのです。

これは来たものに対して全てを引き受けさせていただきますと逃げずに受け容れること、全肯定全受容しそういう自分が主人公で主体となる生き方をするからこそ本来の自分の持って生まれた天命や個性が生き共生が成り立つのだと思います。

何で自分がや、誰かのせいや、何かの生にするのは、そのこと自体が依存であることに気づくことです。そうなってしまったのは、自分で間違った選択をしているからなのです。そうやって生きているのは活かされているのではなく、単に依りついて存在させているといった人工栽培のような状態になっているのです。これでは、自分で生きているとは思えずどうしてもすぐに折れて枯れてしまうような脆弱なものになってしまいます。

自然の中で野生のように生きることは、強く優しく嫋やかに生きていくことが楽しむことです。
大変なことがあろうが、選ばず全て受け取る至誠にこそ生きる醍醐味があるのだと思います。
そしてそれが本来の自然です。

子ども達には周囲の大人の生き方が大きな影響を与えます。
選ばない生き方をすることが勇気であるとし、あの蓮の花のように泥の中から花を咲かせてみたいと思います。

永遠に学びと選びの道は続いています。