灯台の炎

二宮尊徳の夜話に、灯台の話がある。

昔は海が荒れると下田の灯台に寄港して無事をとっていましたが、近くの別の岩場が多いところで火をつけわざと難破させて物品を奪う盗賊がいたとのことです。その盗賊のようになってはならないという話ですがこれは本来の灯台の使い方を間違っていると諭しています。

もともと灯台は、暗闇の中でもそこに辿りつけるように灯りを立てて迷わないように導くためのものです。

これは経営でも同じく、自ら定めた方針やビジョンを照らし続けるのは灯台の光を放ち続けるようなものです。世の中を見回せば、多くの刷り込みという暗闇の中で私たちは光を求めて歩み続けなければなりません。

特に新宿に住んでいると、夜のネオンの光が深夜まで明々とし自然の光はほとんど見えない程ですしまたどこに本来の星の光が輝いているのかすら夜空には見えません。

だからこそ心の眼で心に映る光を捉えるためにも、一度決めたビジョンや方針は灯台のようでもあるのです。

園の現場でも、一度決めたことを忘れ刷り込みに敗れ、せっかく変えようとしたことを元に戻そうなどということがあります。もちろん、そういう時こそ共に力を合わせて乗り越えていく必要があるのですがそれを聞いた現場は何よりも混乱してしまうのです。

自分が灯台だという自覚というものは、今のような時代を生きる上ではとても大切なことであろうと私は思います。灯台が、あまりにもうろうろとしていたり、点いたり消えたりしていたらみんなどこを向いていけばいいのか分からなくなるからです。

道を歩もうとするとき、それを照らす人の光をたくさんの方々へ観えるようにしていくことは一人でも多くの彷徨う人たちを正しい方へと実践で導くことになるのです。

一人一人が灯台になれば、みんながその灯台の光に気づきそこを目指してやってきます。

大切なのは、自分が灯台なのだという自覚を持つ人たちを増やしていくことのように思います。
常に自分から光るような人物になれるよう、不動の信念を磨いていきたいと思います。

先祖一体

先祖の計算というものがある、1000年前まで遡ればほとんど私たちは親戚だったという話です。自分の親が2人いてその上に2人いてと計算していくと、その数が当時の人口を超えてしまうのです。

ちょうど鎌倉時代くらいが1000年前なので、源氏か平氏かなどと議論されますがもう少し前になればその別れる前は完全に家族のようなものなのです。変な話ですが、職業や立場が異なるだけでそれが別の人のように身分が分かれましたが本来人は違いはないのです。

つまり、身内が分かれて分かれて今があるということは他人というものはいないのです。

遠い親戚は他人かといえば、血は必ず繋がっているのです。

人は身内という言葉を使いますが、本来は全員が身内とも言えます。
事故や死者が出た時も、他人事ではないのは本来は皆が繋がっているからです。

国民を家族のように天皇陛下も思うのも、本来は身内が増えたということからかもしれません。
私たちは、元々は同じ血を共有しご縁の繋がりの中で共に生きているともいえます。

時代が変わったとしても、同じ家族です。

身分というものが発生してから私たちは区別をするようになってきました。
それだけではなく、あらゆるものを区別することで自他を分けてきたのです。

ご縁というものは、全体との繫がりで物事を観るとき感じるものです。
私たちの出逢いに、無駄は一切ない。

先祖たちの出来事は自分の心に、この身体に永遠に息づいているのです。
新たな時代を生きる今も、その歴史に誇りを持って歩んでいこうと思います。

 

意識改革

チームで何かを行う際に、様々なテクニックやノウハウなどの方法論があります。

例えば、それが声掛けであったり、ワークショップであったり、アクティビティであったりもし、そもそもの人間関係のもつれやほつれを取り除くようなことは往往にして行われているのです。

しかし本来、私はそういうことをいくらやっても根本的には意識が変わらなければ解決しないと思っています。なぜなら、人は技術で仲良くなるのではなくその大前提として意識の問題で解決するからです。

先日、ある園の相談で仲は良いけれどまだ一体になってはできないという話を聴きました。
しかしそんなことが本当はあるはずはないのではないかとふと思うのです。

仲が良いと本人たちがいくらいっても、一緒にやっていないのであればそれは仲は善くないのです。意識の中でそうなっていないということを言っているのだからやっぱり違いを認められず表面上は仲が良いと自分で言っているだけであるのです。

一緒に何か一つのことを行うとき、仲間意識として「同じ理念を本当に自分から一緒にやっているか」と思っているかどうかということがとても大きいのです。仕事でもそうですが、自分がやっているや、自分がやることだからと業務を行うように思っている人ほど、周りやみんなと一緒に進めようという意識は欠落しています。

人と一緒に進めようとするのは意識の問題でそう思っていない人がいくらテクニックで報連相や情報共有をしても、いくらチームが円滑にできる他の方法を採用しても、仲間と心身一体となっているとは言い難いからです。

不思議ですが、自分がやっているや自分だけがやらなければという意識はみんなと一緒にやっていくや、みんなと一体であるということから離れていくものです。そのうち、勝手に進めてしまったり、自分だけでやろうとしてチームワークそのものを根底から揺るがしていく行為になります。

いつも意識として、「一緒にやっている」と思ったところから仕事に取り組む人はいつも全体に繋がった効果をあげることができ、もっとも価値のある共異一体を構成していくのに貢献していくことができるのです。

先ほどの園では、仲が良いところを目指してはいるけれどみんなで一体になって一緒に取り組むことはあまり重要ではないという意識を持っているとも言えるのです。一緒に集まるのは何のためか、何かの目的のために集まったという大前提を掴んでいないとも言えるのです。

意識が違うだけですが、その差は歴然としているほどにかけ離れています。
みんなに自分が合わせるということは迎合するということではありません。

それはみんなで決めた一つのことを自分もみんなと一緒に取り組むことだからです。
それには本心本気の主体として自分が決めたことをみんなで一緒に遣り切ることです。

人はすぐに義務感から自分だけでと思いがちですが、一緒であることを忘れてはいけません。
それがチームや仲間に対する礼儀や仁義であるからだと私は思います。

こういう意識改革の重要性は目には見えないからおざなりになりますが、目には見えないからこそ心はしっかりと観据えて意識そのものの実践を深めていこうと思います。

 

道はひとつ

この業界に来て、様々な人たちを支援し共に仕事をご一緒していく中でいつももったいないと思うことがあります。

同じように子どものことを思って同じことを取り組むのに、派閥ができ、共にやろうとはせずすぐに構えたり、わざわざ距離をおいて近寄らなくなったりして、力を合わせないのです。

今は時代がまだ悠長なことをしていてもいいと思っていないはずなのに、実際に何かをやろうとするとすぐに自分の世界や自分だけのものにしようとした力が働くのです。

多くの人達が同じ道を目指すのならば、自分だけのものにしたいや、自分だけがよくなればいいという考え方ではなく、共に同じ道を手を取り合って歩んでいくのがいいように思います。

しかし実際は、そうではなくすぐに分かれてまた不利益な競争をするのです。
二宮尊徳に下記があります。

「天地は一物だから、日も月も一つである。したがって誠の道は二つはない。真理は万国同じであるはずだ。ただ真理を究めないのと尽くさないということがあるだけだ。それなのに諸道おのおの道が異なるとして相争うのはそれぞれが自分の領域を狭くしてお互いにへだててしまうためである。ともに三界域内に立てこもった迷妄の者といってよかろう。まず、この垣根を見破ってから道について論ずべきだ。垣根の中にうちこもった議論は、聞いても役に立たず、説いても益がない。」

意訳すると、太陽も月も一つであるように天地は一つのものでできあがっている。だからこそ真心や誠の正道も同じく二つと分かれてはいない。つまり真理は世界共通であるはずだ。ただ真理を究め尽くしていないだけの話です。それなのに、自分の方が正しいとそれぞれに道を歩んでいる人たちが争い競うのはそれぞれが自分の世界に閉じこもり狭くし互いに垣根をもうけようとするからだ。これはこの世の中で自我欲に負けて彷徨っている亡者といってもいい。まずはこの御互いの垣根を見破り、常に道について論じるべきだ。垣根の中に閉じこもった議論をいくらしても役に立たず、それをいくら説いても効果がないのだから」

とある。

それぞれ業界で著名な方や、自ら志を立て一本立っている人たちがなぜ力を合わせようとしないのか、自分の世界でのみやろうとするのか、何かしようとするとすぐにメソッドのようなものばかりが出てきたり、何かしようとするとすぐに人間関係に不信になろうとする。

子ども達のことを本当に思うのなら、自らの垣根を壊してほしいと思うのです。

私自身も、相手のそういう気持ちについ反対したり言い返したりとする気持ちが出たりもします。しかし本当に子ども第一主義を貫くならば、そういう妄想や妄念を見破り、もっと大胆に世の中をよくするために協力していきたいと思うのです。

自分自身も道を歩んでいることを忘れずに、実践とは何か、今とは何かを気づいていこうと思います。

 

手を握る

チームワークを発揮するのに、常にお互いを気配るというものがある。善いチームは、できるできないよりも相手を気遣う姿勢の方を大事にします。それは自分だけではできないことを知っているから周囲の力をお借りするのだからこそ常に配慮を忘れないのです。

この一緒にやっているかどうかというのは、御互いのその手の感覚がどうなっているかを観ると今の互いの配慮の状況に気づけたりするものです。

共に手を握るというのは、御互いを確かめ合っているコミュニケーションの姿だからです。

例えば、何かの仕事を一緒に進めている際に「ちゃんと握っているよね」と確かめ合うことでお互いに共同体として取り組んでいることを自覚するのです。

確認というものが大切だと私は思うのは、それは「手を握っています」と気配りすることで互いに余計な心配や疑念を生まないように取り組む大切な方法であるからです。

確認をせずに何かを進めるというのは、言い換えれば手を握っているとも確かめずに一人で自分の思うように突き進むこと似ています。もちろん、周囲を確かめないでいいくらい強い信頼関係ができあがればいつも握っていると実感し共に進むこともできますが、相手もいるものだからこちらもその際に合図を送り皆と一緒に進めているということでなければ協力を上手く得られない場合もあるのです。

一般的には価値観の異なる人たち同士が共に何かを行うならば常に何らかの確認は必要だと私には思えます。

言葉で交わすコミュニケーションがいくら時間を増やしたとしても、一緒にやっている、共同体として取り組んでいるというお互いの確認がなければ自分から手を握り合っているいるとはいわないのです。円陣をきるのも、御互いが共に取り組んでいるという確認をし一つに集中し気持ちを合わせるための太古から私たちが取り組んできた共同体としての対話の方法なのです。

そして自立と共生もそういうものを通して現れてきます。

最初は子どもが親の手を握って離さないように、何度も何度も手を通して確かめてきます。そこで「大丈夫、握っているよ」という親の合図を送ることで少しずつ手を話していくのです。そしてこれが親心と子心の通じ合いの真心であり、ここからも私たちは共生の真実を学ぶのです。

こうやって幼いときから、一緒にいる安心感や共同体である安堵感が心を信に向かわせます。

子が親を信頼するのは、親も信頼するからで、この信頼関係の上に今の自分の周囲との関係を広げていくのが人間関係であるからです。

今は、何か縦の組織のやり方で自分から握る、互いに握り合うのではなく、一方的に押し付けたり、一方的に投げやりにしたりという歪んだ刷り込みを持つ人たちが増えてきています。見守るではなく見捨てるような関係でお互いを手を切ることを前提にしている組織もあります。

共生するというのは御互いを確認しあうことで見守り合い、その信を絆を強くしていくのです。

より刷り込まれないような実践を考案して、手を打ち、手を握ることを大切にしようと思います。

天地人

天の時というものを学には、天地人というものを観るというのがあります。
かの楠木正成の家訓に下記があります。

「 一日の計は鶏鳴にあり。鶏鳴に起きざれば、日課むなし

一月の計は朔旦にあり。朔旦に礼ぜずんば、仁義むなし

一年の計は陽春にあり。陽春に耕さざれば、収穫むなし

一生の計は幼稚にあり。幼稚に学ばざれば、老後むなし 」

意訳をすれば、「一日を大切にするにはニワトリが鳴く早朝に計画を立てなければ、その日は無駄になります。一月を大切にするには月初に計画を立てなければ、仁義は廃れます。一年を大切にするには春に計画を立て、しっかりとその時に準備して取り掛からなければ収穫はありません。一生を大切にしたいのならば幼児期にこそ計画を立て、その時に気づき学ぶ事をお怠るなら老後は悔い廃れるでしょう。」

一日、一月、一年、一生、こういうものは先手で計画を立てていくことが時を活かすということを実践を通して大切にしてきたのだと思います。

よく手遅れだなと感じるときがありますが、そういう人たちを観ていたらいつも遅いのです。何が遅いかと言えば、朝が遅く、計画を立てるのが遅く、行動が遅く、気づくのが遅い、つまり遅いということそのものが「過ぎ去ってしまっている最中」ということであるのです。

何も考えずに流されれば天の時は分かりません。

やはり流されないようにするためにも、時というものが過ぎ去っていることにまずは気づく日々に感性が必用でそれは実践することでタイミングを捉えることができるようになるのだと思います。

法則の実践などもそうですが、考えてからやっていても遅いのです。気づいたときにすぐに行動するとタイミングがあって来るように大切なのはそういう日々の暮らし方、生き方、取り組み方を、以上の家訓のように生きていくことで天運に乗り幸運を手にするのだと感じるのです。

運の善い人というのは、何時も決断がスマートで行動もシンプルです。

それは気づけるように、何でも先手を取っているからであるのです。先にやってしまうことでもっとも大切なことが何か、それが失われないように自分を維持していくことができるからであるのです。

天の時機を学ぶのは、常に少し前をいくことのように思うのです。
それには習慣を変えて、いつでも自分がチャンスを掴めるように実践をするのみなのです。

頭で考えて理屈を立てて不平不満を悩むよりも、実践で築く在り方の変換こそなのです。
自然から天地人とは何かを感知していきたいと思います。

源志の魂

何かの勝負の際に、人数が多いか少ないかというものがある。

よく会社でも社員数が少ないことがさもデメリットのように言われるし思い込んでいる人がいる。しかし実際は人数が多ければいいか、少なければいいかという表面上の問いはあまり勝負において意味をなさない。

なぜなら、人は一人で戦うにせよ、二人で戦うにせよ、戦う人の志が勝敗を決するからです。人数が多いか少ないかを憂うよりも、志が一つになった仲間であるかどうかが肝心なのです。

かの忠義の偉人、楠木正成にこのような言葉が残っています。

『合戦の勝負、必ずしも大勢小勢に依らず、ただ士卒の 志を一つにするとせざるとなり』

楠木正成は、上杉謙信、高杉晋作なども等しく用いた野戦に長け、自然を縦横無尽に用い戦わずして勝つといった最上の智慧を持って大義を貫いたリーダーです。

これらのリーダーの特徴は、まずは理念や大義があること、そしてそれを実践し実行する勇気を持っていること、さらには思いやりや智慧を天より借りることができた謙虚な心、その時の運気と同体になったからこそであったと私は思います。

志というものは目には見えませんし、それがどのような結果に影響を与えるかも誰も何も言いません。しかし、チームの一人一人が自分くらいと志を下げるようなことであればアッというまに士気は下がり負け戦になるのです。

もしも逆に、自分だけでもと志を貫く気概を持った人たちが集まればチームの一人一人が志を一つにしどんな強敵がいても様々な好機をものにし必ず道理に叶い正しい成果を得られるのだと思うのです。

吉田松陰に、「志を立てて以って万事の源とす」がありますがこれはこのことを言っているのです。吉田松陰は、かつて生前、4回も楠木正成の墓所を参り、自らの志を確かめています。

私も先日、その機会に恵まれいよいよその志の意義を確かめるに至りました。
世界を変えるなら、世界を変えるほどの戦略が必要でありその智慧を得たのです。

智仁勇のプロセスを味わいながら、あるべき道を歩んでいきたいと思います。

いのちの雫

体調不良からバランスを崩すと視野が浅く狭くなってしまうものです。
そういうことから回復するときに、いつも海を実感し海から学んでいます。

人は心身のバランスが整っていると、感情も落ち着いていて様々なものが統一され穏やかに自分というものを客観的に実感することができます。しかしその逆に、少しでも感情の波風に持っていかれたり、激しい変動に巻き込まれるとすぐに主観的になり足るを知らずに不満や不平ばかりの気持ちに囚われてしまうものです。

それはまるで海のようで嵐が吹けばすぐに波風が立ち、落ち着いてくれば穏やかになるようなものです。それだけ感情というものは捉えどころのないものであり、自分がまるで何者であるのか分からない透明でゆらゆらとした存在であるように私は思うのです。

これは私の直観ですがひょっとしたら、これは私たちの身体のほとんどが水でできているからかもしれません。私たちのいのちの源は水なのだから、水そのものが私たちのいのちを構成しているのかもしれません。

これは非科学的かもしれませんが、私たちそのものが水というもので感情ができていると私には思えるのです。もちろん身体はそれだけではなく、土と光と空気などが私たち全体を構成しているということになるのです。

なぜなら、生きてきた人生をどこから眺めてみてもそれが水の流れように感じるからです。

そして私たちの感情と心を観ていたら、それが海のようにも感じるのです。

海はいくら表面上が荒れていたとしても、深海では静かに沈んでいます。
全てのものを容れる力もありながら溶かし、そしてそれを感じて地球の大半を占めています。

空気や光や土があり、身体を構成していますが水が動いているのです。

そう、つまりこれが地球です。

私たちは地球がどのように感じているのか、地球が生きているのを実感するのです。
このいのちというものは水があるから感じられるのではないでしょうか。

何か偉大なものとともに生きているこのいのちの雫に気づけば、幸せとは何かを味わえるのです。当たり前のことに気づいていないことに時折、自分の未熟さを痛感しますがしかしそれもまたこの海のようなものだとし、残りの時間を大切に過ごしていきたいと思います。

 

遊ぶ心

遊ぶ心について書いてみます。

子どもは心を遊ばせます、一つのところに留めていずに様々なところに自由に飛び回ることができます。子どもにはそういう意識の囚われというものがなく、心がむき出しているから遊ぶのです。

大人になってくると、さらけ出すことを恐れ、ありのままであることを抑え、心の自由というものを忘れてしまうことで遊ぶのをやめてしまうものです。

心はいつも永遠の中に棲んでいてこの今を無限に自由に遊んでいます。

そしてそれを私は遊ぶ心というものだと感じるのです。

この今も、あんなことをやってみたい、こんなのだったらオモシロイ、巡り合いの中でどんな楽しいことがあるんだろうと心が自由に天地を行き来しているかのようです。

どんなに現実が決して変わらないものであったとしても、その時の感じるままに心のままに自由を謳歌し生きていくことはできるのです。

子どものままでいるというのは、遊ぶ心を一生失わないということなのでしょう。
かんながらの道の一つであるこの遊ぶ心を子ども達と共に実践していきたいと思います。

今昔の暮らしから

昨日は、美山にて茅葺の古民家などを見学する機会があった。

そんなに昔ではない過去に、人々がどのような営みをしてきたのかを知る機会は今の私たちが何が変わって何が共通していることかを知る旅ができます。

昔の農機具や、昔の造りの家、昔ながらの調度品から出来事、子守唄までその地域特有の暮らしを観察することができます。

例えば、家の中には牛小屋がありその牛小屋も家と一体になっているように配置されています。それだけ牛も生活の中に同化していたのだろうと感じます。その他には、縁側に鶏や家の中には燕、それに様々な虫や土着菌などを上手に活かして共に生活している様子を伺えます。

昔は、身近な生きものたちとの共生を優先して私たちは謙虚に人間だけで自然を独占することを善としない生き方があったように思います。西洋から富の独占が入ってきて優先するものを変えてから一部の人達はとても豊かになりましたがその結果として多くの生きものたちの棲家が失われてきたとも言えるのです。

つまり変化を感じるのは、今と昔で豊かさの定義が変わってしまったことのように思います。

しかし共通しているものもまたあるのは、その時代その時代に合わせてより新しくしていこうとする取り組みであろうとも思います。今のような時代は先人たちの智慧や、過去の職人たちの技術は身近に手に入らないほどの価値があります。

どんなものにもメリットとデメリットがあるように、今の時代の最先端だけでは補えないデメリットというものが発生しているのです。

例えば、どんなに裕福になり沢山のものが食べられるからと健康が手に入るわけではありません。その場合は、昔に倣い旬のものを素食で身近で循環できるものを優先した手間暇の手作り発酵食の方が善かったりとします。

これも同じく矛盾で、高級な健康食を求めるよりも太古から続いている私たちの風土に合った調和食とも言うべきものの方が心身を健やかにできるのです。

昔の暮らしには、私たちが気づくこともできなくなった当たり前が沢山存在します。
その宝をしっかりと引継ぎ、次世代へと今に変換し譲っていきたいと思います。