灯台の炎

二宮尊徳の夜話に、灯台の話がある。

昔は海が荒れると下田の灯台に寄港して無事をとっていましたが、近くの別の岩場が多いところで火をつけわざと難破させて物品を奪う盗賊がいたとのことです。その盗賊のようになってはならないという話ですがこれは本来の灯台の使い方を間違っていると諭しています。

もともと灯台は、暗闇の中でもそこに辿りつけるように灯りを立てて迷わないように導くためのものです。

これは経営でも同じく、自ら定めた方針やビジョンを照らし続けるのは灯台の光を放ち続けるようなものです。世の中を見回せば、多くの刷り込みという暗闇の中で私たちは光を求めて歩み続けなければなりません。

特に新宿に住んでいると、夜のネオンの光が深夜まで明々とし自然の光はほとんど見えない程ですしまたどこに本来の星の光が輝いているのかすら夜空には見えません。

だからこそ心の眼で心に映る光を捉えるためにも、一度決めたビジョンや方針は灯台のようでもあるのです。

園の現場でも、一度決めたことを忘れ刷り込みに敗れ、せっかく変えようとしたことを元に戻そうなどということがあります。もちろん、そういう時こそ共に力を合わせて乗り越えていく必要があるのですがそれを聞いた現場は何よりも混乱してしまうのです。

自分が灯台だという自覚というものは、今のような時代を生きる上ではとても大切なことであろうと私は思います。灯台が、あまりにもうろうろとしていたり、点いたり消えたりしていたらみんなどこを向いていけばいいのか分からなくなるからです。

道を歩もうとするとき、それを照らす人の光をたくさんの方々へ観えるようにしていくことは一人でも多くの彷徨う人たちを正しい方へと実践で導くことになるのです。

一人一人が灯台になれば、みんながその灯台の光に気づきそこを目指してやってきます。

大切なのは、自分が灯台なのだという自覚を持つ人たちを増やしていくことのように思います。
常に自分から光るような人物になれるよう、不動の信念を磨いていきたいと思います。