自然体に生きる力

先日、カグヤの全体会議のお昼ご飯実践の団ランチにて自然農の野菜を皆で食べました。

これは肥料も農薬も水も使わず、種を蒔いて周辺の草を最初に敷いただけであとは一切なにもしていません。一般的には、耕したり水を毎日かけたりといろいろとして育てているのでしょうが、私の実践している今回の自然農の野菜は本当に全く何も手を出していません。

それでもとても立派に味の濃い、個性が光る素晴らしい実をつけてくれました。

最初はこんなにも楽でいいのだろうかと心配するほどでしたが、次第に周囲の草が生えすぎたり虫がたくさんつくとこれはこのままではダメなのではないかと心配になり、心境としていろいろと手を出したくなるのですが、それをぐっと堪えて信じて待つのです。

すると不思議なことが次々と起きて、竟には自然が色々な奇跡を見せてくれるのです。

一見、何もしていないと思われがちなこの自然農ですが何もしないで育つことはありません。自由放任と、見守るのは外見上は似ていますが内容はまったく異なるのです。

そもそも何か余計なことをしたがるのは、そのものの存在を丸ごと信じようとしないからです。

昨日もある園長とのお話の中で、園のある子が遺伝的に障がいがあり実際の年齢よりもゆっくり育つそうなのですが、保護者が「御蔭で子どもはこのように発達するのかと本当に子どもの発達が良く分かります」という話をお聴きしました。遅い御蔭で、親も長い時間、健やかに発達していく子育てを存分に楽しむことができ、発達を観て学び楽しむことができているのです。つまりその子はゆっくり育ちたい親もゆっくり育てたいと思って互いに生まれてきたのです。

つまりは、それにはそれの善さが必ずあるということなのです。

しかし人はつい不安からこうでなければならないと、否定的に物事を見たり、まだまだだと過小評価するのは、それでは善くないという考えに縛られているからのように思うのです。

そしてこれこそ真の刷り込みとも言うのです。

自然に育ててみると、如何に余計な事をしない方がいいということは善く分かります。余計なことというのは疑うということで、それは知識の先入観や自我欲があるからすぐに人は疑おうとしそれが余計なことを考えて問題ばかりを招いていくのです。

つまりこれで善いではないか、これが善いではないかと、自らの心が実感しているとき、そのものの善さが自然に光ってきます。言い換えれば万物の生命が必ず持っている徳そのものが、顕われてくるのです。そしてそれが自然体に生きる力というものではないでしょうか。

自然体に生きる力というものは、そのものを丸ごと信じる事で湧き出てくるように思います。
自然を観ていたら大切なことは生きる体格よりも、生きる体質を善くしていくことです。

自らの魂心体が健全であるかを内省しつつ、太陽や月や地球が余計なことを私たちにしていないように自然と同じ実践を重んじ、その先生から学びながらこの世で生きるという歓びを謳歌し味わっていきたいと思います。