心から入る

相手のことを分かろうとするには共感が必要です。

この共感というものは、頭でできるものではなく心で行うものです。いくら頭で共感しようと思ってみても、心がそこに同化しなければ相手に寄り添うことはできないからです。そしてそれには余裕というものがなければできません。

この余裕とは何かといえば、心を配ることで生まれてきます。

自分が大変になってしまい、自分のことばかりに意識が囚われると心よりも頭で考えるようになり相手のことよりも自分の都合ばかりを思うようになります。

つまり余裕とは、心がちゃんと入っていること、先に心が配れるような状態にあること、日頃からその準備ができているかどうかが問われてくるのです。

その時に急に心を配ろうとしても、頭とは違ってそんなに心は急には動きません。この心というものは、いつも祈り続けて念じ続け、日頃から配慮し続ける事で事象に感応し心が動くのです。

心が動いているときは、全体のことが善く観え、そして繊細に配慮していくことができます。

子ども達を思う心や、相手を思う心、そして世界を思う心、様々な心は日々に育っているとも言えるのです。実践現場ではそういう心が相手に通い合うことではじめて心が全面に顕われそこから余裕というものが観えてくるようにも思うのです。

時間的なものを余裕がないなどと言われますが、それは余裕がないと頭で思っているだけで本来の余裕という意味とは異なるのです。時間だけが余裕があるのはただ暇なだけであることがほとんどだからです。

常に優先することは、心配りです。

自分をどれだけ優先しないか、それは自分を気にせずに気配る、自分に構わず思いやるということが「心から入る」ことだと私は思います。

ちゃんと日頃から準備して、自分のことで一杯にならないよう内省をしたいと思います。