魂は何を望むのか

自分自身が望んでいるところに心や魂の声というものがある。

心というのは、思遣りからくるもので皆が自分のように思える気持ち、全体として捉えているという感じがあります。魂というものは、自然からくるもので自分が本当に望んでいることを自ずから明らかになっていくという感じがあります。

どちらにしても、自分の欲などを超えてそういうもともと持っているそのものが存在するのです。

そしてそれを思うとき、魂のメッセージは常に両極ではなく大極、もしくは両義性や矛盾といったものを選択するようにと声が入るような気がしています。

「これでいいのだ」ということもその魂の道への入り口であり、もともとどちらかでなければならないという発想自体がとても視野を狭くし欲の世界へと我欲に囚われさせていくものです。

生きていれば、どっちがいいのかと選択していくものだと思います。しかしそのどっちがいいのかは実はほとんど定められていて自分が決めたようで自分が決めたようではないことを感じることがほとんどです。

なぜ今の自分がこのような人生になっているのか、なぜ今のようになったのかは、どう考えてみても自分以外の偉大な働きでそうなったとしか思えないようなことばかりだからです。そうして思うとき、では魂の意志とは何かということであるのです。

本来の選択とは、選ばないということで、この選ばないというのは全ての出来事は丸ごと肯定し、全てを受け容れ、如何に善転するかということが魂のテーマであるのではないかと省みるのです。

「魂は何を望んでいるのか。」

それを思うとき、決して楽な方を選択して得られたことはありません。どちらかといえば、楽よりも苦を選択しそれを受け容れた時、なぜこのようになったのかの意味を感じたり、そして私の場合は声に目覚め、それでも往くのだと後押しが入るのです。

自分の頭では無難でいようとしても、それを留めさせない魂の声が入るような感じなのです。その衝動を信じて、直観を信じたおかげで今の自分がいるようにも思います。

尊敬する一人、吉田松陰先生がかつて魂のまま詠んだ言葉「かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂」にも魂のメッセージが籠められています。

これはこのようにすれば結果がこうなると分かっていながらどうしても已めることができないのは大和魂があるからだという意味ですが、今ならその意味がよく分かります。

人はどのような結末になるのか先に分かっていても、それをどうしても已められない衝動にかられることがあるのです。そしてそれはどのような運命が待ち受けているとしても、それでも避けずに丸ごとの出来事をありのままに受け容れ、天を信じ己が善転するかという自ずからの魂に従うかどうかがあるからなのです。

そう思えば、私がもっとも憧れるのは自分の魂の声に従って生きたかどうかそれに尽きるように思います。真実の自分らしくとは、この人生の歩み方が魂と共に歩んだかという軌跡にこそ顕現するからです。

人は試練というものを得て、人生の妙味を味わい尽くしていくようにも思います。
人生に真摯であればあるからこそ、人生に正面から向き合えるようにも思います。

試練を避けて生きる人は運に恵まれないように思います、なぜならそれは運と向き合わないからです。本当に運の善い人は、自分は運が善いと信じているのです。それは運が善いということでどんな現実も魂の声に添って運に従い運を受け容れ、運に応じて、運と楽しむことができるからに他なりません。

一度きりの人生、どのように生きるのかはその人次第ですからこれも自分で決められます。

自然が求めてくるその同化の魂の声に常に耳を傾けて真摯に歩んでいこうと思います。