自然の愛の姿

自然養鶏をしている中で、幼い頃よりの習慣がその後の生涯に多大な影響を与えることを知った。

例えば、雑草を食べるという習慣も幼い時に草を食べていなければ大人になったら草を嫌がるようになりそれをいくら与えても食べようともしないそうです。

他にも生米を与えた雛のような大人になってお腹が強くなることや、あまり過保護にせずに沢山の土壌菌の中で育成した方が健康的で元気なものになるということです。幼い時の生育環境はその後の鶏の一生を決めてしまうほどです。人間は三つ子の魂といい満三歳までと言いますが、鶏では三日だそうです。

これだけ幼児期の環境というものは、何かそこに身体だけではない心や魂といったものに偉大な影響を与えるのだということをどの生命を観察してみてもそれを感じずにはおれません。

それに実際にはじめてみて気づくことですが、今まで見てきた鶏小屋のように狭い中に閉じ込めて飼育するのではなく、平飼といい自由に自分のやりたことがのびのびできるような環境の中に置いてみるととても穏やかで落ち着いているものです。

これはどの動物も同じで、自分にとって居心地が善いと感じると落ち着いてくるのです。その居心地とは安心や安全、見守ってくれている存在がいると本人が実感することで本来の自分のやりたいことがはじまるとも言えるのです。

何かに抑制されたり、不安を感じている状態でのやりたいというものはどちらかと言えば抑制からの解放がしたいだけで本当にしたいことではありません。よく休みになったからと激しく遊ぼうとする人がいますがこれも解放がしたいのです、働き方と生き方が一致している人の遊びは仕事でも遊びでも充実していてとても穏やかなものです。

昔から、衣食足りて礼節を知るとも言いますがもともとの抑制がある状態ではそこで礼儀や節度などを学ぼうとはしないかのように思います。

もちろんその人の気性の差などもあるのでしょうが、それでも全ての生きものは安心する=自分のままでいるということが何よりも居心地が善いようです。

これは同じく人間関係でもそうですが、いつも不安を感じている人たちがいます。それは自分のままではよくないのではないかと何かどこか怯え、いつも情緒が不安定であるからそうなってしまうのです。

ありのままの自分をさらけ出せるというのには、自分が安心できるかどうかというものがあるのです。それはどこまで出してもいいのかと出し惜しみを悩むのではなく、心が安堵するということ、つまりは信頼する人、その信頼の輪の環境の中に自分がいるという自覚があればいいのです。

そしてそれは自分が信頼される人になることがもっとも近道であるのです。

観察すると、子どもの時から親兄弟の愛をたっぷり感じてきた生きものたちは、それだけ情緒が安定しています。しかしそれをちゃんと感じる力が足りないと、すぐに不安になっているように思います。

親というものや兄弟というもの、 これらの体験は何にも欠かせない心の養分です。
自然から学べるのは、親兄弟が顕現する自然の愛の姿なのかもしれません。

絶対的に信頼するものがあってこそはじめて強く優しく生きていくことができるように思います。

ここから自然の学びをさらに深めてみようと思います。