楽と楽

先日、「楽」の違いについて話すことがあった。

この楽には、らくと書いて楽と、たのしい方の楽がある。

一般的には、らくは自分でやらなくてもいい方法、もともと自分が持っている内在的なものを使わずに誰かに何かにやってもらおうとするときに選択しているのがこのらくの方です。小さい頃で言えば待っていれば誰かがやってくれるや、自分がやらなくても親が全部先に片付けてくれるなどと過保護過干渉の中に育ってしまえばそのうち自分でしなくてもいい方法がらくなことなのだと分かってしまうのです。

何でも結果や結末が誰かによって決まるのだと信じていたら、自分が無意識にらくを選んでいることにも気づかずに如何にらくに解決するかを望んでしまう欲に負けてしまうのだと思います。

もう一つの、たのしい方の楽はは何かと言えば、誰かにやってもらおうとあてにするのではなく、自分でやろうや、自分から解決しよう、誰がやらなくても苦しくてもそっちを選択していこうと内在的な自分の力を信じて取り組むときにはじめて自分が遣っていることに気づき楽しくなってくるのです。小さい頃で言えば、自分でやると決めたことを自分で考えて取り組めて遣り切ることができる子ども、自分がやれば必ず周囲は応えてくれると、見守りの中で育つことで自分を信じることができるようになるのだと覆います。

誰かに自分の人生を委ねずに、自らが決めた自分の人生を歩むと信じて取り組むのだから自然に楽しくなってきて人生を切り開く歓びや、自分で道を歩んでいる充実感やその実感を謳歌していくこともできるのであろうと思います。

同じ楽という字でも、そこには、自分の持っている内在的な力を信じて発揮しているかしていないかの違いがあるのです。できる人ができないと言われたり、本来はやれるのにやらないと言われる人もいますがこれは自分の内在的な力を発揮せずに周りに期待してしまう生き方のことを指摘されているともいえます。

自分を信じるということは、つい自分が先にそこから逃げたくなるのもらくを選択しようとするからです。そうではなく、そういう時こそ自分を信じる事、苦しいけれど自分がよくやっていると自分を認め、自分を受け容れ、自分を尊重していくことでたのしいを選択できると思うのです。

らくを選ぼうとするとき、元気はなくなります。都会に住んで何でも脳の思い通りにいくなかにいれば次第に心身精神が弱っていくように、思い通りというのはらくを選んでいる自分があるのです。

自然界に出てみるとらくなとどいうものはなく、思い通りにはいかないことばかりです。しかしそんな自然の中で生きてみると肌も眼光も心身も精神もイキイキしてくるものです。つまりは元気にが漲ってくるのです。

らくを選ばずにたのしいを選ぶということは、苦しいと思っても信じたのだから遣り切ろうとする決心の方でいることのように思います。周りも一生懸命生きているのだから、自分も一生懸命い生き切ろうと自然の中にいるように自分を発揮させていくのです、そこに無限の歓びや味わいがあることを感じられる胆力のようなものが育成されていくように思うのです。

一度しかない自分だけの人生、この一回きりの今回の自分の選んだかけがえなのない人生だからこそ、その日々をその今を味わい深い人生を常に選択することで、らくは少しずつ楽しいに転じていくことが幸せなのであろうと思うのです。

自立ということの深い味わいを感じて、さらに見守りの持つ大切さに気づきたいと思います。