天与の才、天与の心

人はつい油断すると傲慢になって自分の存在に驕りが出てくるのものです。

例えば、自分の力というものでもそうであろうと思います。

もともと自分の力は自分でつけたものだと思っている人がほとんどですが、実際はその力は何かによって与えられたものです。例えば、両親によって身体が与えられ、たくさんのいのちをいただきながら維持し、天地自然の中で私たちは生命を持続させていくようにその自分の力というものも同じく天から与えられたものであると思うのです。

自分というものを私物化するところから、傲慢さというものはでてくるのだと思います。

その延長が国家であり、組織であり、資本主義の課題でもあろうとも思うのです。

もともと自分のものと思うのは、それが私的なもの、つまりは私物であるというところから問題が発生するのだと思います。これがもしも自分や自分の能力、才能はみんなのもの、自分は公器であること、自分のお役目は皆さんへ貢献することだと気づいていればいつまでも謙虚さを失わないようにも思うのです。

会社も自分の私物にし、仕事も自分の私物にし、時間も私物、気づきも私物、何でも私物化すればみんなと一緒に何かを行うずっと以前に自分勝手に自己中心的な人たちなのだからいつまでも同化せずにバラバラになってしまうと思うのです。

すべてはお借りしているもの、いつかはお返ししないといけないと正しく思っていたり、もしくはこれは天から頂いたものだから皆さんに活かさないといけない、または有難い能力を授けてくださったのだからお役目を果たそうと思う心にこそ、素直さや謙虚さが働くようにも思います。

それが一人はみんなのために、みんなは一人のためにの本質であろうと思います。
つまりはもともとは自分もみんなも個人の私物ではない、公物、みんなのものという意味です。

今の時代は、何でも自分のものかどうかということをはっきりさせる世の中のように思います。だからつい人は自分のものばかりにしようと躍起になっているようにも思います。しかしもともとは自分だけのものにしていいはずがないのです。

子ども達だって、子どもたちは天から与えられた大切な宝でもあります。そして自分の子どもではなく、子どもたちはいのちの中のみんなの子どもであるのです。だからどんな子どもも大人たちは育ちを見守っていく必要があるようにも私は思うのです。

そして話を戻しますが、この自分自身で生来からいただいたこの力も祈りの中で磨かれ授かったものですし、真摯に志を実践し、一期一会の真心の出逢いによって顕われてきた天与のものであろうと思います。

つまりその天与の自分、天与の才を如何に多くの人達の役立てていくか、それを思うとき私物としている自分を内省し、これでは宝の持ち腐れになってはいないかと姿勢を謙虚に見つめ直さなければならないのではないかと反省するのです。

この天与のものを活かすとは、天与のものであるという自覚によって生まれると思います。
いつも天の心を感じていたら、心が震えてきます。

忘れないためにも感謝の気持ちをカタチにしていきたいと思います。