自然の学問

料理をするときに、レシピに書いてあるのを創るのと自分で創りあげていくものがあります。

私の場合は食べたものや味わったものを、感覚的に理解してそれを創造していくときに料理の楽しみを味わいます。様々な食材がどんな味になるのかを共通するところに集中し想像しながら近づけていくかのようなものです。

これは上手な言い方が分かりませんが、共感や共鳴といった共通するものの組み合わせを楽しんでいるように感じています。

この共にするということの本質は、全て自分側の方から働かせていくものであって相手や対象物に合わせることではありません。心はとても不思議でそういう万物全てのものが容れてあってそれをシンクロさせていくことができるように思うのです。

そして生きる力、その学び方というのはもちろん基本としての自然の法理や法則があることは大前提ではありますが色々なことを日々に体験し観察し、それを発掘し、真似をしていくことで自分のものにしていくことが学びの真の歓びであるように思います。

この自分のものにするというのは、簡単そうで決して簡単ではありません。善いものを取り入れるには素直な心が働かなければならないように思うからです。それは共通しているということがわかりそこから智慧を学びとることを行っているからです。

自分と共通するということは、自分の中に共通するものをどう発見するかと同じで自分の中にあるものを見出す内観がなければそれをものにはできません。

自然界には、学ぶものばかりですがそれを自分はどれだけものにしているのかと思うと本当に未熟です。それは智慧というものまで行き渡っていないからのように思える事が多いからです。

私が自然の中にいることがもっとも学べる理由は、自然にはどんな事柄からも学べる素地に満ちているように思えるからです。

今朝の雨であっても、昨夜の風であっても、もちろん木々の感じ方であっても、それをどう感受してどう感得しているかということから学びはさらに深まっていくように思えるからです。生き方からあり方から共に学べることは無限に存在しているのです。

孟子にこうあります。

「学びて厭わざるは、智なり。教えて倦まざるは仁なり。」

学ぶ事を嫌がらないものは本当の智者で、教えて飽きない人は本当の仁者だとありますが、自然界はすべて自習自得の世界であるように思えます。

そして続けてこうあります。

「これを自得すれば、すなわちこれに居ること安し。これに居ること安ければ、すなわちこれに資ること深し」

これは私の意訳ですが、(他人から無理に学ぶ人ではなく自習自得する人はいつも安心して学び続ける事ができる。そしてその安心した境地で自主的に学び続けるからいつも智慧を得られるのです。)ということになるのだろうと思います。

私にとっては私も自然の供であり、そして自然は私の先生そのものです。

最後に孟子でこう締めくくります。

「万物みな我に備わる。身に反して誠なれば、楽しみ、これより大なるはなし。」

自然と共に道を往き、真心の中にある学問をいつも楽しんでいきたいと思います。