素食~一汁一菜~

一汁一菜という考え方がある。

先日から食養のことを見直し、何を改善するのが実践なのかを深めているとやはり根本の食べ方に近づいていきます。もともと質素というものは、素食ともいい、シンプルな食事のことであろうとも思います。

このシンプルな食事とは本物の食事のことであり、何が本物であるかの中には当然食材の方にもあるのでしょうが本来の食べる側の主体としてのもともと何を食べてきたのかという食歴から考えていかなければならないのです。

私たちの民族は太古の昔から何を一番食べてきたか、また何が常食であったか、そこには原点や基本をどこに置くかというものがあります。主軸ともいいますが、自分の主軸を見失っている人にいくら法則や原理を語ってもすべて対処療法で根本的な改善にはつながらないように本来の本物ということが分からないのです。

主軸というものは、常に立て直すこととセットで使われるものです。

この立て直すというのは、知らずしらずに流されてしまっている自分に気づき、もう一度原点に帰り自らの主軸を打ち立てるということに似ているように思います。

どんなに次から次に気づいたとかやっていても、元来の主軸がある人とない人では気づきの質も量も、またまっすぐに立てるかどうかにも影響があるからです。その主軸とは、そもそも生まれるときから持っていた大切なものだからです。

そして主軸を直し、全てを立て直すというのは、もう一度元来の芯を入れ直すということでそこには何を削り取り本物にするか、つまり何をやめて何をはじめるかにかかっているのですがその何をはじめるかにシンプルさが必要なのです。

乱れた生活や歪んだ精神、その他迷走迷惑した日々というものは常に迷いを生むことになります。シンプルさというものはその迷いを極力なくし、本来の在るべき姿がなんであったかを思い出すための道であるように思います。

人には、魂、心、そして体がありますがこの「食」はその体の根本を為すものであり、それ次第で健康というものが決まるということです。

食という字は、人が良くなると書いて食です。

主軸から立ち直すには、シンプルな日々、素直な日々、素食の日々に懸かってもいます。

病む人たちが健やかに生きるためにも、自らの真心を尽くした実践を貫きたいと思います。
すべてにおいて素が本物であることを子ども達へ示していきたいと思います。

 

ゴールイメージ~想念実現~

世の中で話が出ているゴールイメージについて私なりに考えてみます。

人は生きていく中でその場面場面に、ゴールイメージを思い浮かべます。そのゴールイメージが鮮明に明確である人はブレナイ人といわれて感情をいつも善いコンディションに保ち次々に自分を創りあげ現実を理想に近づけていくことができるようになります。

そのように成功体験の多い人というのは、その成功のイメージ、つまりはゴールのイメージを自分の心に明確に持っているともいえます。まるでドラマのラストシーンのように栄光に輝いている自分像、もしくはその場面を想像している人はそのシーンを場面場面でいつも体験することができるのです。

しかしこの逆でいつも失敗体験の多い人とは、その失敗のイメージ、つまりは良くも悪くもゴールに描いてしまうイメージを悪い方へと引き寄せてしまうのです。そのとき感情にもっていかれて、自らその悪い時のイメージそのものになるように体験してそれを何度も繰り返していくのです。

昔、バレーボールをしていたときによく試合中に流れが悪くなると「負けが入る」時がありました。これはどのスポーツでもいえることですが、ふと悪いイメージを持ってしまうのです。このパターンは負けてしまうと思うときに、次第にそのシーンが顕われてきて結局はその通りになってしまうというものです。それを払拭するために、負けが入りそうなときは成功イメージ、つまりは逆転して劇的勝利といったようなイメージを思い浮かべて感情を楽しい方へと向けたものです。そのために必死に練習したり、弱点を克服した自分を思い浮かべたり、今は違う自分たちだと皆にエールを送り念を合わせたりして乗り越えたものです。

つまりこういうとき、場面と感情というものは常にイメージとセットになっていて、自分がこうなりたいと思うことや皆でこうしたいという強いイメージがあることで其処に向かってはじめて「ゴールイメージ」が顕われていくのです。

感情というものは自分の心の描く姿とセットになっていて自分が嬉しいと思うこと楽しいと思うことのままに現実の世界に投影すればそのまま顕われ、逆もまた言えるのです。善いイメージを持てるかどうかで勝敗が決まるかなどとは簡単には信じないでしょうが冷静に観照するとほとんどがそうなっているのです。

ポジティブな考え方というのは、この善い方の感情でいるということに他なりません。最初からネガティブで悪い方ばかり、上手くいかない方ばなりを考えていると次第に感情も過去の失敗体験にアクセスしてそれを引き寄せてしまうからです。そしてそれはとても用意周到で自分でも気づかないうちにそうなるような仕事の進め方、自分の関わり方、全てが感情によって周りを悪い方へと導いていくのです。

そして自分を責めるというのも、その過去の感情を何度も引き寄せおびき寄せる行為に似ています。自分を責めれば責める程に、そのネガティブイメージを刷り直していくのです。そうやって自分を刷り込んでしまうと、同じようなシーンや似たシーンになると、すぐにその感情が出てきて自分から進んでそのシーンを起こすような態度を取るのです。

自分のイメージというものは、自分で描くしかなく、それをいつも強く持つというのがゴールイメージです。より具体的に鮮明に未来を思い描き、その目標やゴールに向かって自分自身が全身全霊でそこへと挑む戦いをするということ。誰かと比較してとか評価とかを気にせず、自分の決めたゴールイメージに専念する、それを全員が行うことで最幸の人生を掴み、最幸のチームを構成していくようにも思うのです。

チームの中で悪いイメージが起きそうなときこそ、善いゴールイメージを持つ人が成功イメージに挑むことで他のネガティブなメンバーを引き上げていくこともできるのがチームプレーの醍醐味と面白味でもあるのです。またネガティブな人は自分がネガティブな感情にならないような配慮や準備を怠らないことでいつも自分の感情を善転するようにケアしていくのが自己管理にもなります。

集団で高い理想を目指せば、そして夢を描けば、妥協点は決して低くはなりません。だからこそ、妥協している仲間がいたら腹が立つのは当たり前です。そうやって妥協点をみんなが下げずにゴールイメージを目指し個々全員が真摯にゴールイメージに挑戦し取り組むことで世界一やオンリーワンというものは築き上げていくのです。

なんでも無難や上手くいかせようと考えてしまうのはその人の個人の価値観、その自分の設定しているゴールイメージにこそ課題があるようにも思います。ゴールイメージとは、最幸の豊かさを味わうための目標設定、つまりは自分に「夢を持て」ということのように思います。

どんな風にしていきたいか、どうなりたいか、どこまでの高みを望むのか、その正対する個々の挑戦が自分をそして周囲をイキイキワクワクさせてくれるように思います。いつもネガティブな感情でまわりに迷惑をかけて足をひっぱらないようにすることがチームへの最大の配慮です。

配慮とは、そうやって自己観照し、自立することではじめてできるようになるように思います。
自らの人生をどれだけ絶対肯定するか、そして信じるか、自分の想念次第なのでしょう。

素直で爽やか、明朗にして謙虚、また元気溌剌として無邪気な子どものように前進していく。
想念も生き方、そして人生は歩み方、心を澄ませて穏やかであるのがいいのでしょう。
想念というものは、実は素直さの言い換えたものなのかもしれません。

見守りということ、見守るという指導、心得、その全てを学び方へと深めていこうと思います。

役割分担の意味

役割分担について思うことがあり、自分の考えをまとめてみます。まず私の思う役割分担は、分けてあるものではなく混ざり合っていてファジーなものです。つまりは全体としては調和するときにこそ役割が活きて一緒に取り組んでいるように思います。

つまり私の思う役割分担というものの本質は、何かを分けて行うことではなく皆で一緒に持ち合っているという意味でつかわれます。昔から代表的なことが、共同生活をしていく中で炊事、洗濯掃除から、育児や家事、仕事を含めて様々なことを役割分担して取り組んできたところを思い出します。

家では、自然に誰が何をすると言わなくてもそれぞれに共同生活を営む中で役割が分かれています。しかしこの役割は意図的に分かれていないことにもすぐに気づけます。それは役割とは業務を分けて自分と相手を分けて考えているのではなく、自然に何を誰がやるのかが分かりそれを手伝うことで渾然一体となっていくのです。

子どもの頃は、自分から手伝いたくないのに手伝えといわれると嫌々ながらやっていたものです。その頃はやりたくないことは手伝わないでいいようにしようと離れたり避けたりしていましたが、そうすると叱られ「嫌々しながらやると事故が起きるからやめなさい」とよく怒られたものです。嫌だから嫌々なのですが実際に、嫌々やっていると茶碗が割れたり何かを落として壊したり怪我をしたりと大変でした。そうして自暴自棄になり悔いても自分に返ってくるから学習して受身にならないように一度引くと下がり始まるから兎に角前へと攻めに転じていたものです。

させられるということはこういういうことで、やりたくないのにさせられるから楽しくないのです。させられていると思うのは何のためにやるのかを先に自分で考えようとしないときにおこります。言われたことをそのままにやっているのが手伝いになると次第に楽しくなくなるのです。

子どものときもなぜやらなければならないのかと不満で楽しくありませんでしたが何度も手伝っているうちにその意味やその大切さを実感してお手伝いをするということがどういうことかを学んだのです。特に親から頼られていると理解してきたのは自立してきてからで、感謝も通い合い、今では自ら頼られていると実感して自然に役割分担し手伝いをすることができます。頼り合う関係とはとても居心地がいいもので、そこに大きな安心感もあります。

きっと家の中でも自分が重要な立場であることを自覚し、それに両親が老いていきつつ自分が認められて頼られているという自己認識と実感がそれをできるようにしたのかもしれません。

そう考えると役割分担も刷り込まれているものがあるように思います。

元々は自分の役割があるということはこれは大変な名誉で誇らしいことでもあります。

自分の能力が他の人のためになる、これは人類が今まで生き残った力であろうと思います。歴史からみても人がその能力がつまらないことのためにやるのか、社会の中で理念や志のためにやるのかで意味が変わります。それは例えば、 かの三国志の関羽や張飛が、無頼漢で力だけがありあまる山賊のようであったのが劉備と出会い、平和のために大義の実現のために立ち上がろうとしたときにその才能は天下国家のために開花したのと似ています。

自分の役割があるというのは、それ相応の理念の実現のために使われるとき役割に誇りを持つことができるのです。もしもその手伝いが、子どものためになると信じる時、もしもこの役割こそが理想の実現のために使われると信じる時人はどんな労苦も厭わないのです。同じプライドでも、なんで自分がこんなめにと思う不貞腐れたプライドにするのか、また自分を理想のために使えるとプライドに思うのではその働き方も変わって来るように思うのです。

自分が何のために辛苦を味わうのか、困難に立ち向かうのか、それはすべて理念があるからのように思います。目先をみるとすぐに理想を失うのは世の常ですが、そういう時こそ倦まず弛まず怠らずに精進していくことが役割を誇りのままに維持していくことのように思います。

なんだか目先で見ると理念からかけ離れた業務もありますが、そういう時こそそれも大切な「学び」、これが自分のプライドだとして自分の才能をより発揮し磨いていくように理念から離れないようにすることが正しい実践であろうと思います。

どんな些細な仕事の中にも精魂を込める、丁寧に行うという姿勢は常に自分の都合を優先しないで理念を優先するという学びの姿勢、素直な姿であろうとも思います。

つまり役割分担、渾然一体になるというのは、そういう志や心を合わせるのが先なのかもしれません。だからこそ何のためにやっているのか、常に考えることが役割分担のコツのように思います。何のためにを忘れると往々にして仕事に心が篭らず自分からプライドも粗末にしてしまうから自分我嫌々になってしまうのかもしれません。

これも日々に心を入れて身体を使い主体的に役割を思う、そして考えを掘り続けることで、はじめて深められ、そうしていつまでもその深めた場所に止まることができる信念を持てるようになるのだと思います。

自分を大切にしていくことが役割に気づき、分担を楽しむことなのだろうと思います。
自分を大切にするとはどういうことか、それは自分の覚悟を生きることであろうと思います。

チームが成長しその個々が成熟していかなければ共生のモデルになりません。
今を学び自分を大切にして、直向に素直に精進あるのみです。

絶対音感~音楽~

昨日は、保育環境研究所ギビングツリーのリーダー研修にて赤ちゃん学会のメンバーである志村洋子先生の講演を拝聴することができました。

先生は赤ちゃんと音楽を中心に研究をなさっていて、音楽というものが本来どういうものであるか、また赤ちゃんというものは本来どうであるかを様々な研究事例をもとにユーモアたっぷりでお話いただきました。

お話の中では見守る保育と共通するところ、また私の思う自然観とも類似していて貴重な学びをいただくことができました。歌の持つ力、音の持つ力、楽しむ力、その偉大な自然の力を再認識できる機会になりました。

その一部を紹介すると絶対音感の話というのがあります。

「世間のいう絶対音感とは、皆が分かる共通の音でドレミファソラシドがどのようなものかと認識することができる音のことをいいます。しかしこれは本来の絶対音感と呼ぶものではなく、あくまで相対音感でそれはみんなと同じ音でなければならない、みんなと同じでなくてはならない、そういう定義の音感になっている」とのことです。

つまり本来の絶対音感というものは「その人そのものが生来、もともと最初から備わって持っている音感というもので、それが歳とともに失われてしまえば聴力が低下しそもそものものがなくなってくる」という意味で使われていました。

これは子どもの時がもっとも持っていてその後に自分の必要のないものを削り取っていくという考え方と同じです。そしてこう続きます。

「音楽というのは音を楽しむものでそれを何かの合図にあわせて音をならせるようにしたり、何かの評価を誰かがしたりすれば、もともと持っているその人の感じていた音というのは失われてしまうとのことです。特に赤ちゃんから10歳くらいまでは絶対音感を持つけれど、そのうち次第にそれが失われていき、大人になるにつれ選択し聞き分けていくなかでもともと有った機能は次第に失われていくということ。つまりは赤ちゃんは白紙ではなく聞き分けないですべての音を拾うことができている、つまりはすべてを持っているのだ」ということを熱く伝えてくださいました。

このように子どもが何もできない存在であるというのは、大人になったら何かができて子どもは子どもだからできないという大人の一方的な刷り込みに縛られたものです。何ができてなにができていないのかの定義を逆転させなければ、本来人間というものは完全な存在で生まれてくるということにも気づくこともないのです。

また先生が警鐘を鳴らしているのは、「本人たちがその気にならないのに、無理にさせようとする音楽の指導があるということ。あんな音楽では楽しめない、突然なんの前触れもなく、相手のやる気も確かめずにさせようとする。あれでは音楽にはならないということ。無理に何かの音にあわせようとさせるから面白くない、もっと自由にさせていくことがいい、それがハーモニーの本質。こうでなければならないというものではなく思いっきり好きにやって善い、そうすると楽しくなる。こうでなければならないという、先入観、不自由さが何かを失わせる。」とありました。だから、赤ちゃんや子どもに先生が一方的に大声をあげて音楽を教えることがないようにとありました。

また先生と控室でお話したときに、「なぜ幼児期にあんなに音を楽しみ歌と親しみ踊りを好きだった子どもが大人になるにつれてそうではなくなっていくのか、それをなんとかしたい」。この義憤こそが今でも先生を研究発表に向かわせているとのことで子どもを思う気持ちにとても共感しました。

 私は人間は自分の興味がある好奇心があるものであれば不可能を可能にする力を持っていると信じています。赤ちゃんのときから、それを見守られれば人は必ずこの世で何かの使命を果たす立派な人になるように思います。

また音については赤ちゃんは静かな方がいいという話がありましたが私も同じ感覚で、昔からの音、つまりは自然の音というのは、私にとっては静寂の中にあるものです。静寂こそが私は音楽だと思ってもいます、あの心の中にある平静、最も澄み渡ったときに感じる無音、あの音にならない音にこそ不思議な力が潜んでいるように思います。

それに調和とは、それぞれが如何に自由になるか、自分らしく素直であるか、あるがままで自分を活かしてときにこそ楽しむという力を存分に発揮できるように思います。この楽しいというのは、自分のいのちが歓ぶことを言います。

これから学んだことをどう活かすのか、これは今後のテーマで抱き続けたいと思います。

有難うございました。

 

 

生き残る道

遠野物語を著した柳田國男に民俗学がある。

先日、お米の先祖を辿っていると海上の道という名で題された著書に久高島のことが明記してありお米は海から先祖と共に渡ってきたのだとありインスピレーションがありました。

先祖について調べているうちに、民族学というものがどう起こってきたのかに興味が湧き色々と調べることができました。

この民俗学は、もともと「人類学」を修めた伊能嘉矩が「土俗学」というものを立ち上げそれを佐々木喜善に引継ぎ、そこから柳田國男と出会い「遠野物語」が世間に発表されます。元々、私たちの先祖がどうしていたのかどうであったのかというものを深めるというのは今までどのように暮らして何を学び子孫へと伝承してきたのかを知ることになります。

特に生活習慣の中で、実験実地をし何が善くなり何が悪しきものであったかもその話材の中で伝えられるのです。思いやりや真心を込めて生きた方を伝えて美談にしていくこともできますが、同時にあさましいものおぞましいもの、嫉妬や強欲など人間として避けては通れないものも同時に真実として口伝にしているのです。

ここに、生き抜いていく智慧や今までどのように生きてきたかの人類としての英知を伝承するのです。生き残るということは、今まで人間が大切にしてきたことをいつまでも忘れないことです。それをどのようにすればいいかと伝えていくのが先祖のお役目であろうとも思い、それを子孫が掘り起こしてさらに伝承することが滅びないための方法のように思います。

柳田國男の「先祖」と題した著書のはじめにこのように書かれています。

「人が平静に物を考え得るようになるまでには、なお何年かの月日を待たなければならぬことは止むを得ないであろう。しかし、いよいよこれから考えてみようという時になって、もうその考える材料というべきものが乏しくなっていたら、どうであろうか」

「日本民俗学の提供せんとするものは結論ではない。人を誤ったる速断に陥れないように、できる限り確実なる予備知識を、集めて保存しておきたいというだけである。」

「ただわれわれが百千年の久しきにわたって、積み重ねてきた所の経歴というものを、丸々その痕もないよその国々と、同一視することは許されないのみならず、現にこれからさきの方案を決定するに当たっても、やはり多数のそういった人たちを相手に、「なる程そうだ」という所まで対談しなければすまされぬのである。」

とある。

もともと自分たちがどのような経歴で歩んできたのか、その歴史を正しく知り伝えていくことは今までどのように生き抜いて今、此処まできたのかを知る唯一の王道であるように思います。

別の民族が同じように生き残ったように私たちもどのように生き残るのかを学び知ることで、これからどのように予言し予見するかを自覚するようにも思います。

この先どのように生き抜いていくか、子ども達のためにも真摯に学問を果たさなければならないという使命感に背中を押されています。まだまだ実践ははじまったばかりです、しっかりと温故知新につとめていきたいと思います。

環境課題

今の時代のサイクルについて考える機会があった。

もともと今のように物が豊富になっていることで、大量生産大量消費、そして大量廃棄という価値観が横行しそこから様々な問題が起きています。

これは経済社会の全ての場所で言えることで、食でも物でもエネルギーでも、さらには人や環境までも大量に生産するものを維持し増やしていくことで経済が豊かになるという考え方のことです。

大量に生産することを目標にし、まず大量に生産してしまうと、それを何とか消費しなければならなくなります。大量に消費するためには、莫大な費用をかけて宣伝や仕組み作りが必要になり大量の経費もかかります。そしてそれが上手くいかなければ大量の廃棄が必要になるのです。

今のゴミ問題もそうですが、作りすぎるから捨てる必要があり、分度を定めて正しく生産していれば廃棄の問題というものはなくなるのです。明治以降から、グローバリゼーションの波が押し寄せ、とにかく溢れんばかりに物を作り出す方法を機械化し、システム化し、流通を加速させることでより便利にしましたがその反面、捨てることによる貧しさも同時に加速したのです。

捨てるということは、その役目を活かそうとする発想ではなく役に立たなくなれば要らないという発想です。役目を活かそうとする発想は、何か他の使い道がないか、何か他にも活かせる方法がないかと様々な創意工夫が思いやりから発生できます。

しかしそういうものも失われていけば次第に、もっと便利なもの、もっと真新しいもの、もっと効率がいいものというように自利があるものだけを優先してしまうようになります。

作りすぎているからと、余ったものは捨てる、その仕組みを維持するために各方面に無理を要求する、その結果として危険で不誠実なものでもいいというモラルが生まれる。このサイクルは、捨てるという発想からはじまっているシステムによるものだと私は思います。

もっと捨てないという発想、分度を定めて取り組むという人道の在り方を見直し社会が善くなるために何をすべきかということから取り組む時代にしていくことが子ども達の未来に自然を遺すことの一つのように思います。

日々の生活から刷り込みに気づき、様々な環境課題を一つずつ見直していこうと思います。

自立し直す

若杉友子さん「若杉ばあちゃん」の講演を拝聴する機会がありました。

お話の内容も大変共感することが多く、自給自足の生活や様々なライフワークを通じて学んできた実践からの智慧を語ってくださっていました。時折は過激なメッセージもありましたが、きっと義憤があり強い思いやりからであろうと思い日本には元気な優しいおばあちゃんも頑張ってくださっているのだと嬉しくもなりました。

子ども達のことを思い生活していく中でよく出てくるキーワードは覚悟です。

健康もそうですが、どんな健康法もテクニックでは治らずその本質はやはり自分でやるかどうかということに尽きると思います。本気で自分で健康を立て直すと決めなければならないということ。

つまりは、いくら減塩したとか、便利なサプリを飲んだとか、何かの方法論を試したとかいってもその元、つまりは自分が本気で周囲への安易な依存を断ち切り取り組まなければならないということを何度もお話してくださっていたように思います。

今の時代にどうすれば覚悟が決まるかといえば、周囲は簡単に甘いお菓子が買えるし、健康に関する情報はあふれかえっていますし、自分を甘やかし流されるもので満ちている世の中に存在していてつい無理だろうということばかりを思い全部を変えようとはしないのです。

ここだけ変えるとか、これだけやってみるとか、そういう変わり方では何も変わらないしそれがかえって悪くしていくのだといいます。

これは生き方のことを言っていて、まず生き方を変える決心をしたか、そのあとは何をしても大丈夫なのだということでしょうが人は生き方とかいうものよりもそれ以外の方法でとすぐに選択をしますがここが落とし穴だというのです。

自分で決める、自分で立つということは、生き方を直すこと、そしてそれが自立をし直すということ。正しく立つというのは、ここだけやればいいではなく覚悟を決めるということなのであろうと思います。これはコンサルティングの要諦でもあり、人生が変わるという本質でもあろうと思います。

誰かのせいにできるのも覚悟ではなくここで安易な方を優先するからで、本来は誰の生にもしない自分の生は自分で足りる、つまり自給自足の自立の本質にシンプルに回帰すれば全てのことは実現するというのです。

とても参考になり、どのことでも同じ在り方が勝敗を決するのだと実感しました。

病気で苦しんでいる人や、精神が病んでいる人、いつも悪循環で歪んでしまって悩んでいる人たちが世の中にはたくさんいますがそれを解決に導くにはまず自ずから実践していくしかないように思います。

まず自らが自立することの重要性を実践から子ども達へと還元していきたいと思います。

分かろうとすること

分かろうとするということはどういうことかというのを深めてみます。

この分かろうとするのは、頭で自他を分けて行うことを分かろうとすることではありません。それでは分かった気になるからです。分かった気になるというのは、相手を見ていて相手はきっとこうなんだろうと相手のことを安易に認識することをいいます。

本来の分かったとは何か。

それは同体験をしながら共感していることを言います。相手の苦しみを分かった気にならないのは、相手と同じところで共感できるからでそれは同時に実体験している最中でなければそれは得ることはできません。例えば苦しいと感じている人を共感するには自分も苦しいと思っていないとできないのです。

自分だけが苦しくなく、何も感じていないのに相手の苦しみを共感することはできずその思いも体験も分かち合うことができなことを分からないというのです。

この分かるというのは、分かち合うことができます。

分かち合うというのは、同時に同体験をしている最中にお互いの心が通じ合う、同じ心を通わせていることをいうのです。どれだけ真剣に生きているかが困っている人たちを救うのは、その人が苦しみの最中にいることから逃げず、それを転じて善いことにし続ける実践こそがその人を励ますからでそれが私のいうコンサルタントであること、その在り方であると定義しています。

どんなことにせよ誰かを導くという仕事は真剣に苦と正対し、それが必ず同じ境遇の人たちのためになる、自分の生が必ず社会の御役に立つと信じているからできることのように思うのです。

自分自身がそれを決めて歩むことがコンサルタントをしているということになるのだと思います。いくら経験を多少積んで、ある程度知って分かったとしてもそれは分かったということではなく分かった気になったよと思えばいいと思います。

同時でいるのは、挑戦の連続ですが同時でいられるということは相手のことを思いやれる強さ優しさを持てる自分で在るということに他ならないとも思うのです。分かろうとするのは、自分の生を強く逞しく生きて自問自答を続けていくことのようにも思います。

つまり同体験をもっと深く掘り下げて引き出してそれを味わい尽くしていく、人生の醍醐味をあるがままに感じ今を究め尽くすことをいうのだと思います。シンプルにいえば、素直に真心で生きることが分かろうとすることであろうと思います。

一生懸命に自分を生き切ることが世の中の御役に立つことを実践から示していこうと思います。子ども達にも、周りをみて自分を決めるのではなく自分のことは自分で決めるように在り方そのもので共感していきたいと思います。

 

民俗の美学

昨日、昔一緒に仕事をした方が9年ぶりに訪ねてきてくれました。

ご縁を大切に人脈を大事にお仕事されている様子に、何時までも変わらない人柄に暖かい気持ちになりました。ご縁を活かそうという生き方をしている人は、いつ何があってもその活かそうとする姿勢からどんな場所でも境遇の中でも人を頼りに生きていけるように思います。

あの頃も学んだことをまた改めて思い返し学び直すこともでき、ご縁の不思議さに改めて感じ入りました。お仕事とはいえ、律儀で礼儀正しい働き方をされている姿というのは美しいと思います。短い時間でも9年間の心を通わせることができるのは、御互いにご縁がどうなっているかの確認をしているからかもしれません。

さて、その話の中で本質についての深めることができました。

今はスマートフォンなども台頭してきて、より便利により機能的にという風に人間のもともと持っていた機能を機械にやってもらうというものがより細かくなってきました。その中で様々なアプリも開発され、最近有名なのはタクシーを呼ぶのにGPSでボタン一つで近くのタクシーを呼び出すようなものも好評を得ているようです。

アプリの開発なども実際は、そのものの本質が何かというよりも開発する時間が間に合わないからという理由で他社より少しでも前にいっていればいい、安ければいい、もっと便利な機能がついていればいいという過当競争になっているようです。

先日のドイツでの話になると、ドイツではもともとタクシーとは「人を安全に安心に運ぶ」のが本質だからとそういう便利なアプリではなく、そのタクシーを乗客が評価してより質を向上させるアプリが開発され利用されているようです。あまり急いでとなると事故が起きやすくなるし、そんなことをすると大切なことが失われるからという配慮からだそうです。

今の日本は何か急ぎ過ぎて何でも早くとスピード重視になり、じっくり考えて正しく議論し取り組むという価値観が失われてきているように思います。善いものは長く時間をかけて取り組むことではじめて醸成されるのですが、何でも即席でとなれば質は必然的に下がると思うのです。

お互いの話の中では、気にせずに新たに自ら発明するしかありませんねと談笑しましたが私たちの会社で取り組んでいることもこの問いに似ています。何かのソフトも開発されマーケットに出てしまうと、すぐに比較対象がそういう機能や便利かどうかというモノサシで考えます。

私たちはそうではなく、その本質が何かから考えて取り組むようにしています。

それを行うことが誠実であること、自分に正直でいること、お客様に信頼されることだと信じているからです。どれくらいのスパンで物を観て、どれくらいの全体で捉えるかで時間軸や空間軸というのは変わっていきます。

子どもに関することだからこそ真剣に議論する、本気で思想や姿勢をチェックするという取り組みがなくては子どものためとは言えないように思います。

日本という国はもともとモノを大切にする美意識を持つ国です。

大切な物には、いつもお役目がありますからと接し、そのお役目を全うすると、お役目ご苦労様でしたと労をねぎらうのです。それはそのものが「はたらき」をしたことを称え尊重してきた私たちの姿勢、在り方のように思います。

このような便利な時代だからこそ、外から流入する価値観によってもともとあった価値観が消えさるのを指をくわえて流されるのではなく常に己に流れる血と歴史、その民俗の美学を温故知新していくことが開発者には求められるように思います。

人も物も環境もすべてはお互いに時代とともに成長しあえるものが、竟には互いをより役目に回帰し助けあうように思うからです。

子ども達のためにもこのご縁を歩む道のりに特に気を付け、少しでも子どもの未来に信が入るものを創造していきたいと思います。

分かってもらうよりも分かろうとすること

お互いの信頼関係を深めていくのに、御互いを分かり合うというものがある。

自分のことを分かってもらおうとすると、相手も同じように自分を分かってもらおうとするものです。それがもしも自分の方が分かっていると認めていけば、同じように相手も分かっていると認めるように思います。

これはお互いに信が入るからで、自分のスタンスがどちらかということを御互いが確かめているからです。コミュニケーションというものは、きっと分かってもらえないと思っている人同士が話をするとこじれます。その反対に、お互いが分かり合おうと努力するとそこに思いやりが生まれていくように思います。

論語にこういう一説があります。

「人の己を知らざるを患えず。人を知らざるを患う。」

これは「相手が自分のことを分かってくれないと気にするよりも、自分が相手のことを分かろうとしないことを気にしなさい」という意味ですが、これは的を得た素晴らしい実践だと思います。

大体、自分のことで精一杯というのは相手や周りへの思いやりよりも自分のことを分かってくれない、なぜ自分だけがこんなに大変なのかと常に周囲に不満の矢印を向けているのです。そういう状態では、自分からいつも相手のことを分かろうと努めるよりも、なぜこの人たちは自分の境遇を分かろうとしないのだと思いやりではなく敵対心のようなものを抱いてしまいます。

一言でいえば余裕がないということでしょうが、これは自分のことを分かってもらおうとし過ぎているから起きることであり、もっと自分から先に相手のことを分かろうとすること、気に掛けること、思いやる事や心配することを行うことで抜けていくことができるのです。

そうやって孤立し、一人だけで抱え込むから余計に他人の助けが得られないように思いますし同時に人を助けることができなくなるのです。

そもそもなぜそれを自分がやるのかと本質を省みてその後、きっと自分が大変なのは周りも大変なのだろう、だから自分がさせていただくことになったのだと同時に思いやることが自分の役割に気づくことだと思います。

人はみんな何かしらの役割があって困難を持ちます、それはその人にもっとも相応しいことを体験することではじめて周囲への共感を味わうからです。それが自分にしかできないことの発見であるように思うのです。

これは頼まれごとを断らず誠実に真心をもって取り組むことで、次第に自分の世の中での役割が観えてくるということかもしれません。

そして自分と同じような境遇の人がどれだけいるか、その人たちのために自分がさせていただく、自分が学ばせていただくという謙虚で素直な姿勢があればそれを乗り越える過程やその共感そのものできっと誰かの御役に必ず立つことができるようにも思います。

大変な仕事や難しい仕事を引き受けるのは、自分がそれだけの役割を持ちたいと願ったからです。仕事でいえば、上司になるや幹部になる、大きなことを任されるようになる時には誰にせよ通る道なのでそれはきっとみんなそうなのだと分かろうとする方がいいように思います。

論語の中で弟子の顔回が、「大変な仕事やつらいことは自分が代わり、自分にしかできないことを手伝い行うようになりたい」という一説がありますがまさにこれも同時に思いやりを目指す自ら決心した生き方の言葉のように感じます。

本来は自分が目指していることなのに嫌な感情を持つことはありますが、実はそれは元々は自分が選んだ道、自分の決めた道なのだと感じ直すことであろうと思います。その自分で決めた道に自分で文句を言っても仕方がないのでやはりそれを素直に受け容れてまた一歩と歩むことが尊いように思います。

自分で決めれば、嫌なことはつきものですがその嫌な事よりも美しいものも同時にそこには存在するように思います。大変行い難いものですが、そういう時こそ修行や錬磨の機会、目指している姿に近づけるチャンスだとして日々に内省し精進していきたいと思います。