進化

変化というのは、常に前に時間と共に進むものだからこそ環境にあわせて自分の方が変わっていかなければなりません。

そして変化というものは大変なことであるのは、自分が変わるか、変えさせられるかしかないからです。

例えば、環境でいえば自然現象で次第に水が枯れていく場所があるとします。そうしたとき、水が枯れてくるのにあわせて自分を変えるか、他の場所に移っていくか、それともそこで朽ち果てるか、それは変化の兆しを見ていればすぐにわかるものです。

なので生きものたちは、いくら今まで自分がそれで生きてきたとしても自らが変化を選び進化していくことで変化を受け容れて学び生長していくものです。進化というものの本質は、前に進むということで時間が経ち環境が変わるのだから進むのを自分でするということです。

もしも自分でしないのなら環境から進められるのだから、無理にでもしないといけなくなります。生き物は急な変化に対応することはとても難しいからこそ、自然はあえてゆっくりと時間をかけて変化していく思いやりがあるのです。

しかし急を要する時代に生まれたり、そのような環境下にいれば変化は常に身近にあるものです。その変化に対して、変化を自らがすることを怠ればあっという間に変化がやってきて変化を迫られてしまいます。そうして迫られれば、変化に呑まれて否応なく変化に流されてしまう側になってしまうかもしれません。

だからこそ人は学ぶ必要があるように思います。

自然は学ぶものだけを遺し、学ばないものを淘汰させるように思います。

常に学び続けて自分を変化成長させていくのは、生き残るための智慧であるように思います。そしてそれは結果だけを追い、解決することだけを求めて焦り急ぎ欲を出すのではなく、じっくりと変化に学んでいくことのように思うのです。

変化とは、人が学ぶためにあるものです。

だからこそ、変化している最中にこそ真の学びがあり変化そのものが尊いと感じるのでしょう。
今の時代は、何も変えようとしない人たちが自然に進化する時代の邪魔をしようとします。そうやっていくら自分が進化を邪魔しようとしても、進化というものは決して人知がやるものではないのだからこの変化の循環は誰にも止められません。

だからこそ、自分が変化そのものになりながら学ぶことが自然や道理に叶っているように思います。安易に上辺だけの解決に手を出して満足したり、単に間違いを否定したりするのではなく、寛容と謙虚に、変化を学び道をどっしりと歩んでいくことを大事にしたいと思います。

心を開く

都心にはまだ先日降り積もった雪があちこちに残っています。土がないところで日陰になっているところでは、雪は一向にとけそうな気配はありません。

田舎に比べると都会の方が肌寒く感じるのは、その不自然な人工物が循環にそぐわないからかもしれません。ふと、土の方から考えてみるとアスファルトがあることで土の間も断絶されきっと地下では雪が降っていることもわからないかもしれません。

土というものを考えてみると、四季の中で様々な活動を行う生きものたちの根を育みます。冬であれば、その降り積もった雪の下でしっかりと根をはり、寒さに耐えながらも暖かい土中下からの地球の温度に癒され春をじっと待っていくのでしょう。

そもそも断絶というのは、このように土の上にアスファルトを敷いて人間にとって都合がよい方へと便利な方へと変えてしまうことです。本来は、土の中で様々な思いやりを温め、それを土の外の世界で実らせる。

これは人の心の根も、土と同じように断絶していないかと考えることができます。

心を閉ざすのは、まさにこの土との間にアスファルトを敷いていくようなものだからです。
自然で居るというのは、自分や人間の都合がいいように便利なように心の弁を閉じておいてうまく立ち振る舞うことを頭でおぼえることではなく、心を開いていつも自然なままでいるということであろうとも思います。

自然体というものは、心がいつも開かれていることだと思います。自分を気にして相手を気にして、自分らしさも忘れてしまって、どれだけ周りに気取ってみても、それは決して本来の姿とは違うものであれば、今の都会のようにあちこちに雪が残ってしまいます。

本来の自分自身が周りに心を開ければ、自分のままが一番すべてを活かすことに気づけます。
自然はいつも私たちに、あるがままの心を開いてくれています。

自然からまだまだ広く明るく学びを開いていきたいと思います。

自立の勘違い

先日、自立の勘違いについて大きく気づき直すことがありました。
それは自分流というものを持っている人が自立を勘違いしているということからです。

例えば、自分流などという言葉は、自分では真似ていると勘違いするときに使う言葉です。実際は自分に自信がない人ほど自分流などというものでコピーではないものをコピーしていると勘違いしているからそう思っているのです。

一流の仕事を真似るや習うというのはどういうことかというと、その人の背景にある今までの体験を習うや真似るということに他なりません。表面上だけを似せてそれで自分はいいとなるのは、決して本当の真似ではないのです。

イチロー選手の振り子打法のコピーをしたといくら本人が思っていても、それは決してイチロー選手の真似とはいわないのです。イチロー選手がやっていることはその心技体全てに到達した本質をいい、それを自分もできると安易に勘違いしているのは大きな間違いだからです。振り子を似せてもなぜ振り子なのかの本質は真似していないからです。なので自分ではもうやれると先に思い込んで自分流で勝手にやっていても、本番になれば誰の目にも振り子打法の本質と全く違うことをしていることは明白です。

だからこそ、本当にコピーするのならイチロー選手が行った全ての本質を自分で”ものにしたか”どうかを自分でやりながら真摯に確認してこそはじめて自立できているかどうかの確認になるのです。これは武道の師弟関係のようなものと同じく師から弟子が己で学び己で習うのに似ています。

本当の習うというのは、その人が過去に取り組んできた練習や訓練の仕方、仕事で言えば取り組み方やプロセス、積み上げてきた修練などの全てを”自分のもの”にするために真摯に直向に習うことではじめて仕事の仕方が理解できてくるともいいます。習うというのは、鳥が親鳥のやってきたことと同じように体験を積み確認しそれをものになっているかどうかを見守ってもらうことをいうからです。

例えば、身近な例でいえば一流の経営者の仕事を真似るというのはとても至難のことです。

なぜなら、その一流の経営者は過去にどれだけ質の高い体験と経験、自分のリスクで修羅場や真剣勝負などを得て、膨大な量の知識と膨大な量の智慧を己から一流に習いものにしているから一流の仕事ができるのです。一流が難しい仕事を簡単にやってのけるのも、それは頭がいいからや能力が高いからではなく過去にそれに掛けた時間があったからです。つまり一流の経営者の仕事がわかっても、一流の経営者のように一流の仕事ができないのは一流の仕事の仕方を学んでいないからです。

なぜ人はこうやって自立の勘違いが発生する本質は、頼ることができないからです。

例えばイチロー選手に頼ることができれば、それを習うことができるようになります。それを一人で頑張り頼ろうとしなければ、単にコピーですからそれは自分流になるしかないのです。いつも大事な場面でイチロー選手をあてにしなくてもいいようになるには自分でできるようになるための真の実力をつけるしかありません。

本来の自立というのは、自分から信頼関係を築き、自分から習い、そして自分から頼ることができて自分でできるようになることではじめて自分で立ったとなります。

過去の教育や家庭環境から誰も信頼せず、一人で頑張り一人で立てることが正しいと間違った価値観を植え付けられた人たちが結局は一人で無理をしていつまでも自立を勘違いしてただ一人だけでやることを正しいと思い込んでしまうのかもしれません。

本来の一緒に取り組むというのは、それぞれが己でできるようになるという互いに認め信頼しているという証であり、それがあってはじめて社会の共生と自立を育んでいくのだろうと私は思います。

子どもたちに自立のモデルを志すからこそ、真摯にこのことは考えていなければなりません。

家船

私たちはもともと海に囲まれた島国の中に住んでいる民族とも言えます。

海に囲まれているからこそ昔から漁業なども盛んでした。
そこに家船という人たちがいて、陸には土地を持たずに船で生活する人たちがいたようです。
家族全員が船上生活をする中で、生き抜くことを学んでいくのです。

船に生活するのだから、日々の点検を怠らずに船が沈没しないように手入れをし規範と実務、実践を大事に子々孫々へと暮らしを継承してきた様々な智慧があったように思います。

何か大きな出来事があれば、一家の一大事として昔は全員一致団結して困難を乗り越えました。私は今年の一年のテーマは「家」なので、家に関することで先日も思い当たることがあり二宮尊徳の「大海の家台船」の一説を社内で話をしましたが忘れてはならぬ私たちの在り方そのもののように思います。

そこにはこうあります。

『尊徳先生はおっしゃった。「家屋の事を、俗に家船(やふね)また家台船(やたいぶね)と言う。面白い俗言である。実際、家を船と心得ればよい。これを船とする時は、主人は船頭である。一家の者は皆乗合いといえよう。世の中は大海である。そうだとすれば、この家船に事があるときや、また世の大海に事があるときも、皆逃れられない事であって、船頭は勿論、この船に乗り合せた者は、一心協力してこの家船を維持すべきである。さてこの家船を維持するのには、かじの取りようと、船に穴があかないようにするという二つが大切である。この二つによく気を付ければ、家船の維持は疑いない。ところが、かじの取りようにも、心を用いず、家船の底に穴があいても塞ごうともしないで、主人は働かないで酒を飲み、妻は遊芸を楽しんで、せがれは碁や将棋にふけって、二男は詩を作り、歌を読んで、安閑と歳月を送って、終に家船を沈没させてしまう。嘆かわしいことではないか。たとえ大穴でなくても、少しでも穴があいたならば、すぐに乗合一同力を尽して、穴をふせぎ、朝夕ともに穴のあかないように、よくよく心を用いるがよい。これがこの乗合いの者の大切な事である。ところが、既に大穴があいてもなお、これをふさごうともしないで、各々自分の心のままに安閑と暮していて、誰かがふさいでくれそうな物だと、待っていてすむであろうか。助け船を頼みにしていてすむであろうか。船中の乗合一同が、身命をもなげうって働かなければならない時ではないか。』

一緒に暮らすというのは、運命共同体という意識のことです。

どんなに自分だけが助かろうと思っても、この大海原の世の中を生きていくには自分の帰属するコミュニティー(信頼できる仲間)を築き上げなければなりません。それができてはじめて自立したと言えるからです。

だからこそ自分の乗る船が沈没しないように、同じ船に乗り込んだ乗組員は命懸けで守り、それぞれが一心協力し続けていなければ自分も周囲も守れないのです。家族を守るというのは、一家の人達が心を合わせるからできるのです。

今の世の中は、何を守ることが自分も仲間も守ることなのかを勘違いしている人も増えています。すぐに信頼することを忘れ、自分だけでなんとかしようとするのもその信頼そのものの本質や意義が孤立する社会の中で欠落してしまっているのです。これも都市生活をし、画一教育の中で育った人たちの現代病ともいえるのではないかと思います。

自分だけが助かろうとするのではなく、如何に運命共同体を築き上げるかということを考えなければならないと思うのです。それが歴史を顧みれば人類生存の叡智そのものであったからです。

仏教のいう所の自利と利他ではないですが、利他を常に優先する人はそういうコミュニティーを自らで形成できます。なぜなら利他というのは、自分を守ってくれている安心感を常に信頼を心の主軸に置いて行動することができているからです。そうやってはじめて生きる力の根源になる仲間と自然に包まれて生きる幸せを味わっていくことができるように思います。

先人たちの絆や信頼を家というカタチにして残したのは生存の智慧そのものです。今に昔の人達の智慧を学びつつ、それを繋ぎ譲れるよう、遠くの灯台を見つめて子どもたちの未来に残る船を建造し前へと進めていきたいと思います。

声を聴く

昔書いたメモなどを見返すのは、昔の体験をフィードバックするときに使えます。

人は自分を中心に物事を捉え、すべてのことに善悪を考えたりすることで苦しみ悩んだりするものです。そういったことから、様々な思い出深い体験をし、悔いたり反省したりしていくように思います。

そうして時が経ち、次第に事実を受け容れることができ気づいたことを記憶に書き記していくように思います。それを自分を再び省みるようなことができるとき、自分がどのような感情があるのか、我欲があるのかを客観的に分析しそれを整えたり制したりしていくことができるのです。

それは頭で行うものではなく、すべて心が行っていくもので内省というものの本質を捉えているのです。

内省というものは、自分の心を観照しその心を見つめて変化していくもののように思います。

そうやって素直に自分を受け容れることができるなら、何らかの出来事というのは、自分が変わっていないことの証明と自分が変わっていくことを教えてくださっている天の声とも捉えることができるようになるのではないかと私は思うのです。

そしてその天の声に対して、自分が過去に体験して気づいたメモや書き記した記憶こそが自分の声ではないかと思うのです。自分の声をちゃんと素直に話ができることや、自分の声をちゃんと謙虚に聴けることができるようになれば物事は丸ごと善いことに変化します。

人は心が正しくなければ、何も聴こえないというのはこういうことからなのでしょう。

日々に精進して、道の中の記憶を刻んでそれを修めていきたいと思います。

プロセス重視と成果

人間学と時務学というものがある。

本質を学び人間を陶冶していくと同時に、知識や技術を磨くということです。日々の体験から、内省をし自らを高めていくのと同時に、自分の強みや能力を磨いていくことが必用だということです。

孔子とドラッガーではないですが、その両面を常に高め磨く必要があるように思うのです。私も日々の論語と同時に海外のビジネス書を読み込み感覚がズレナイように取り組むのもそれがあるからです。

特に仕事の仕方というものについては、一般常識的な知識を磨くと同時に自分の強みを発揮する仕事の仕方というものも学ばなければならないと思うのです。その人その人にとってもそれが個性であるからです。

P・ドラッッガーの著書「明日を支配するもの」にこうあります。

「自らがどのような仕事を得意とするかは、特に知識労働者にとっては、強みと同じに重要な問題である。」

この時の仕事というのは、単に業務のことを言うのではなくどのような仕事の進め方や在り方を最も得意とするかという広い範囲での自分の得手不得手のことをいうように思います。自分がどのような強みがあるのか、そしてそれをどのように活かすのか、自分を知り自分に合っているかどうかに集中するともいうように思います。

「実際には、強みよりも重要かもしれない。ところが驚くほど多くの人たちが、仕事には、いろいろな仕方があることさえ知らない。そのため得意でない仕方で仕事をし、当然成果は上がらないという状況に陥っている。」

成果というのは、どのような仕事の仕方で進めたか、そのプロセスが徹底したものであればあるほどに確実に成果が実るとも言います。結果さえ出せばいいという考えが常に失敗を呼び込むのは、そもそもプロセスを蔑にして仕事の成果を求めてばかりで本来の仕事の進め方や在り方そのものの方に注力しないことが問題ではないかと思うからです。結果を求めずにプロセスを重視するものだけが最良の結果を生み出すことができるからです。これは結果だけが実力ではなく、本来はプロセスに努力精進しているからその両輪で一流の実力者になると言えるからです。

よくアマチュアとプロフェッショナルの違いで語られますが、アマチュアでは結果だけとか努力だけとか偏っています、しかしプロフェッショナルはプロセスを重視し日々の徹底した仕事の進め方に妥協せず、同時に結果を出すから一流と言われるのです。

この見えないところでの精進と、目に見えてくる精進がプロの所以なのです。

「強みと同じように、仕事の仕方も、人それぞれである。それは個性である。生まれつきのものか、育ちのものかは別として、それらの個性は、仕事に就くはるか前に形成される。したがって、仕事の仕方は強みと同じように与件である。修正できても、変更することはできない。少なくとも簡単にはできない。そして、ちょうど強みを発揮できる仕事で成果が上げられるように、人は得意な仕方で仕事の成果をあげる。」

自分の仕事の仕方を重視している人だけが、自分の強みと同じくらいの個性を発揮するのかもしれません。そしてそれは、その人らしい精進と強みの開花が、最良の成果を引き出すに至るのです。

「フィードバック分析は間違った仕事の仕方も明らかにする。その原因を明らかにできることはあまりない。しかし、間違いを発見することは難しくない。数年の仕事の経験は必要かもしれないが、やがていかなる仕事の仕方が成果をもたらすかは、直ちに答えられるようになる。いくつかの癖が仕事の仕方を規定するからである。」

本来のフィードバックとは、自分を知り自分を活かすということが何かに気づき改善することではないかと私は思います。孫子の兵法ではないですが、「敵を知り己を知れば百戦危うからず」がありますが、自分の状況を事前に自覚することでより一層のプロセスに注力していくことができるということでしょう。

つい結果のみで判断してしまう昨今ですが、本来の実力とは何か、見定める力も指導者には必要であろうと思います。正直者がバカを見ないためには、正直とは本当は何かということを明るみにしていくことのように思います。

素直に取り組む人は、日々のプロセスの大切を知る者です。
何を自己監督していくべきか、事実は現実とともに明らかになるばかりです。

 

国際感覚

人は自分の価値観を拠り所にして様々なことを判断しています。

先日のインドでもそうでしたが、世界は様々な宗教観などを含め価値観を形成するものがありその価値観に由って生きているともいえます。ヒンドゥー教とやイスラム教などもそうですが、私たちからすればなぜそこまで激しく対立するのかと思うものですがそれだけ価値観というもの中で理解できないものが互いにあるのです。

食べもの一つでもそうですが、豚肉を食べないとか野菜しか食べないとかもその価値観がそうさせるとも言えるのです。自分の価値観が正しいと思い込んでいればいるほどに、相手の価値観は間違っていると思うのです。

本来は、それでも相手の価値観を認めて相手も正しい自分も正しいという柔軟性があればいいのですが相手から自分が間違っていると責め立てられれば同じくそれを仕返すというように対立は激化していくとも言えます。

そう考えてみると、世界での紛争のほとんどは互いの価値観のぶつかり合いとも言えるのです。言葉を話せるようになってから、文化をそれぞれで持ってから、私たちは逆に話し合うことができなくなっているともいえます。

言葉で何万語使って語っても、分かり合えないということも生まれてしまっているのです。

だからこそお互いに共通するものがあることを学ぶことが人間の最上の教育ではないかと思います。それは真心であったり思いやりであったり、勇気であったり優しさであったりといった人間の共通した生き方そのもので分かり合うことがシンプルなかかわり合いであろうとも思います。

そしてそういうものを感じるには、常に自分がシンプルであるように価値観に柔軟でいなければなりません。柔軟であるには智慧と体験、そして素直であることが必用でそういうものこそ学問を修めていく中で体得していくのでしょう。

世界で活躍する一流の人達の共通するものは、やはり価値観に素直である気がします。まずは自分から国際感覚を磨けるように、精進していきたいと思います。

虚無虚空の音楽~共鳴~

インドに訪問し、ラビ・シャンカールのことを思い出して深めてみました。

昨年の12月に亡くなっていることを知り、その偉大さを改めて再認識しました。このラビ・シャンカールさんとは地球交響曲の映画ではじめて知ってから何回かインドの音楽に触れることがありました。

ちょうせ先日からのインド訪問で、そのインドの風土や気候、人々の生活の中に流れるものに触れて改めて音を聴き直そうと思ったのです。

このラビ・シャンカールさんの奏でる音楽は虚空の音といい、かのモーツァルトに共通するものがあるように思います。今世紀の楽聖とも言われ、音楽というものの本質をシタールという楽器を通じて世界へと弘めて改めて音楽というものを刺激した方ではないかとも思います。

このシタールは、ギターのように、おおきな瓢箪と、弦からなる楽器です。その弦は7本あり、そのうち4本は、演奏用で残り2本でリズムをきざみます。さらに、その下に13本の弦があります。これを共鳴弦いい、この共鳴弦があるからこそ音に揺らぎがうまれます。もともとはこのシタールの原型、ヴィーナにはこの共鳴弦がなかったそうです。それをシャンカールさんが言うには昔の人は、鋭い耳をもっていて自分の力で、共鳴弦を聞くことができたのではないかとありました。

つまりはこの揺らぎの音を奏でることができる手と耳、そしてその虚空の音「アナハタ・ナーダ」を知覚する手を耳で行っていたということでしょう。このナーダという言葉は、もともとは「流れ」のことをいい目には見えないような確かな自然の流れを観てとり、耳で聴きとり、それを顕現させているものを音だと定義しているようです。

この音間の中にある無中の無、有中の有、つまりは有無を超えた無の音を奏でることができたというのはその流れを心がいつも捉えることができたということに他なりません。何もないように観える中から実際は確かに存在しているそのものの音を聴きとることができるということでしょう。
これを私は一瞬の閃きとも呼んでいますが、ある瞬間に降りてくるような感覚があるものがそのままに掴み抜き、流れの記録記憶にアクセスするようなものがあったのではないかと推察します。

自然に入れば、静寂の中にも確かに流れるいのちの音のようなものがあるように思います。それは五感を研ぎ澄ませていくことで次第に実感できるようになります。それが今の現代では、あまりも生活が偏り乱れバランスを崩し、自然ではない音を聞き、自然ではないものばかりを視て、自然ではないものを食べ、自然ではない香りを嗅ぎ、自然ではない光を浴び、自然ではない言葉を交わし、自然と離れすぎた生活をする中でそのかつての五感も六感もバランスも消失してきているのでしょう。

こういう本物の音に触れることは、自分の感覚を呼び覚ませていくとても貴重な道具の一つであろうとも思います。神社でもそうですが、かつての音楽、自然で奏でる音楽を聴くことで私たちの中に確かに流れる本物の音、虚無の音を学びつつ畏敬を感じて一体感を味わったのではないかと思います。

インドには確かに流れている真実の文化や道が存在していました。

その聞えない音や見えない光を正しく視て、正しく聴いていく修めることが今後も課題になっていくように思います。仏陀の八正道ではないですが、それは私にしてみれば「流れ」を感じる力を養う道のように閃きがありました。

今後も自然の音を、虚無、虚空の音を聴ける真心を磨いていこうと思います。

 

幸せの本質~インドの旅最終日~

インドの旅も最終日に入り帰りの航空機内で独りふり返りをしています。

あっという間の充実した4日間で、まだ情報の整理などもできていませんが初めて訪問したインドとそこで暮らす人たちの話を直にお聴きし体験しより深く学ぶことができました。

人間の社会というものは、本当の問題を表面上の違いで覆い隠していくものです。本来は、自然に沿って何もしなくてもいいものを余計なことを手出しすることから問題を広げていくものです。何かを優先すれば、そこに歪というものは発生していくのが自然であろうとも思います。

だからこそ互いに歴史は異なれど本来の互いの姿がどうであったか、同じアジアの異国を観ながらが自国のことを客観的に改めて考えることもできました。

今回の旅では幸せの本質についてもテーマを持ち、同時に鑑み深めていきました。

そうした中でよくよくふり返れば、世界が異なったとしても時代が異なっても人が運命が異なっていても、幸せということについては万物共通して同じであるものを発見しました。これは人々は平等に時空を超えて幾世代もかけて私たちは幸せというものが何かにいつもそれぞれがご自分で辿り着いてきているから分かるのです。

そう考えれば、実は幸せであることが何のことかを忘れてしまうことから他人は不幸になっていくのかもしれません。

人は幸せを忘れないでいるのは、常に自分でいることができるからです。それは本来の自分がどのようであるのかを人は知るために、一生をかけて学び育っていくようにも思うからです。そうやって自分を知り、自分を使い、自分を活かすことは世界共通の幸福につながっているのだと私は感じます。

今回の旅の最期は、釈迦のこの言葉で締めくくりたいと思います。

「天上天下唯我独尊」

世界に一人だけの自分をその手にしっかり掴んで、我が幸福の道を歩めばいい。
幸せの本質を心に抱き、自分をさらに精進していきたいと思います。

幸せの本質~インドの旅3日目~

今日は、インドにある中でも革新的な学校と盲学校を視察しました。

インドに来てから、様々な貧富の差やあらゆる価値観の矛盾を味わいつつ引き続き幸せの本質とはというテーマで日々を洞察しています。そもそもこの国は身分制度にはじまり、人々が階級などにより棲家を棲み分けています。

インドでは一部の富裕層の生活との違いばかりが気になるような風土が太古の昔から今にいたるまではっきりとあちこちに現存しているように思います。

そしてそれは今の時代の学校や教育の方針などにも反映していて、競争し1人で勝ち残るための指導法などがインドでも人気を要しているようです。本来の幸せとは何かなどはあまり議論されず、世間の求める物質的な豊かさや裕福さといったお金や名誉などにもよって無意識に基準が設けられているようです。

この世には目に見える貧富というものと、目に見えない貧富というものがあるように感じます。そして私には本当の貧富の差は、表面上の差ではなく自分そのもののバランスではないかとも感じるのです。分相応ではないですが、その人に与えられる物資的なものと精神的なものとのバランスがあってこそ本来の豊かさや幸せといったものに出会うようにも思うのです。

ここではより感じたのですが本来の幸せというものは、決して物質的な裕福さだけではなく人生=生き方としての真の裕福さがあるように思うのです。それは自分自身の信じることを自分自身が行うことではじめてバランスが取れるように思うのです。つまりは物か心かではなく、その両面、そのバランスの元となる自分が幸せかどうかということです。

人はどんな環境や境遇に生まれてくるのかはわかりません。今日の盲学校ではないですが、目が見えないからといってそこに不平不満があるのではなくそれを受け容れて卑屈にならず健やかに自分らしく生きている姿にこそ幸せの種を感じるのです。

幸せかどうかというのは、その人のままでいることが幸せなことなのかもしれません。
そしてそれを信じる事ができる人こそ、幸せを素直に感じることができる人かもしれません。

明日は最終日です。

今日も思い出深い貴重な体験をたくさんさせていただきました。
これが何に繋がっているのか、、、ワクワクドキドキのままに楽しみたいと思います。