執念

新しいことに挑戦するときや、様々なことを清算し前進するとき大切なのは最期の瞬間までのやる気の維持であるように思います。

どうしても行動よりも妄想が増えてしまえば、やる気というものは減退してきます。そもそもやる気というのは動いているときは下がらず、動かずに考えるだけという妄想を続けているから次第にそれが不安や恐怖を呼び込みやる気が減退していくのです。

そして一番減退する時期というのは、あと少しで達成するという所であろうと思います。

人が成功体験と失敗体験を感じる境目はここで、これを乗り越えるかどうかによるのです。

論語に、こうあります。

「たとえば山を為(つく)るが如し、未だ成らざること一簣なるも、止むは我止むなり。たとえば地を平らにするが如し、一簣を覆すといえども、進むは吾往くなり。」

意訳ですが、「学問も人生もその全ては山を土で積み重ねていくようなものである。それがならないのは自分が土を盛ることをやめてしまうからである。そして積まれた土をならしていくのも同じである。それを一つ覆せるのは、自分がそれをやったからである。」と。

つまりは、それを最期まで遣り遂げるのも途中で投げ出すのもだれのせいでもなくすべては自分がそうしたからだという戒めでもあろうと思います。自分に矢印を向けてみれば、事が為らないのは全部自分のせいということだろうと思います。

だからこそ最後の瞬間や、後半のあと少しのときこそ今までの数倍のやる気を出して走り抜かなければならないのです。長距離マラソンと一緒で、今まで走ってきたことや今まで取り組んできたことを必ず善いことにするという覚悟、そしてその決心が最後に出てくるからのように思います。

そしてそれが粘りと最期まで諦めない心といった執念、そういうものが「信」を生み出していくように思います。根気強く続けていくというのは、その諦めない心の醸成でもあります。

新商品が間もなく一つの軌道を見せますが、ここが正念場だと思い丁寧に取り組んでいこうと思います。