幸せの本質~インドの旅2日目~

今日は、早朝よりインドのデリー市内からアゴラまで車で移動しつつ現地の観光を行いました。町の中で様々に生きる人たちの様子に、それぞれの運命を感じることにもなりました。

人間は生まれた場所や環境がその後の人生に大きく影響を与えます。もしも自分がここで生まれていたらと思いを巡らせれば、今与えられている環境が感謝できるものです。そしてそれは見聞を深めるということでできるのです。

例えば、寒い気候や厳しい環境の中で成育したものと、温暖で湿潤の穏やかな中で成育したものとでは明らかにその今の自分の姿が異なるはずです。つまりはこのように見聞を広めていくことで本来の自分の今を正しく理解に努めていくことができるようにも思います。

幸せの本質について昨日から考えはじめて今も思いを巡らすとそこには穏やかで安らかといった心の持続ということを思い当たります。インドではこれをニルヴァーナとも言うそうですが、その境地を維持していくことができる心境ということです。

これは私には「真摯に実践を続けて悟ることのない状態の維持」というように感じます。つまりは、悟るというのは、悟るか悟らないかではなく悟ろうと学び実践を続けていることこそが心の平安を持続することのように思うからです。何でもそうですが、分かった気にならないというのは分からないままに実践して腹落ちするまで頭で分かろうとはしないということが現実と理想の中間を得ていると思うからです。

釈迦にこのような説法があるのを発見しました。

「欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくゆくならば、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、かれは、矢に射られたかのように、悩み苦しむ。足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世でこの執著をのり超える。人が、田畑・宅地・黄金・牛馬・奴婢・傭人・婦女・親族、その他いろいろの欲望を貪り求めると、無力のように見えるものがかれにうち勝ち、危い災難がかれをふみにじる。それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊れた舟に水が浸入するように。それ故に、人はよく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。」
意訳すると、欲というものがあるから色々な苦が付き纏う。だからこそそれに気をつけながら歩みなさいということですが私は欲が善いとか悪いとかではなく、ここでは気をつけなさいということが実践そのものであろうとも思うのです。自分という舟を川に浮かべて進んでいけば、波風や様々な試練から転覆しそうに揺ら揺らしていくものです。
最終的には大海原へと向かうのでしょうが、そこまでの旅路に安らかに流れ流され達していくことが幸せのように思えるのです。そしてそれは例えば菩薩行の実践をすることにより、その様々な欲と上手に付き合いつつ、自然循環の一部と一体になった境地にはじめて入っていけるようにも思うのです。
自利と利他がありますが、やはり人は自分のことよりも誰かの御役に立てることを優先しているときの方が欲も回避して自分らしい正しい行いができるように思います。これも実践というもので、それを行ってはじめて心静かな気持ちで義を優先していくことができるように思うのです。
そう考えれば、自分号という舟との正対の実践こそが幸せの本質かもしれません。
明日からは子ども達の施設の視察ですが、さらにインスピレーションを高めていきたいと思います。