実践という名の自信

先日の愛媛の糠床でも感じましたが、思いやりというものに距離も時間も超えているものを感じます。生きものと生きものは、思いやりの中でつながるのはそこに心の共感があるからのように思います。

一般的には自分の先入観や過去の知識から、頭で推測していくことは共感ではなく強制になり、相手の気持ちに自分の心をじっと寄り添い共に歩んでいこうとするのが思いやりであろうと思います。

人は自分のことが自分で一杯になっていると、自分の主観や価値観のみで判断してそれをもっとも正しいと思ってしまいます。そうなると素直といいながら、根深いところに自我が入り込んでいて本来の素直ではなく自己満足や自分勝手になっていくものです。

なので人はじっと一人で慎み内省をする時間が必用で、素直になるには自分がどうなのかという自分への矢印を正しく向けるのを先にし、相手にばかりに意識を向けなければいいように思います。

先日の糠床の話で、離れていてもいつの時間帯でも今のその糠がどのような状態であるかが分かると女将さんが仰っていました。まるで子どもを育てるように、いつも気持ちを合わせることができているのは互いに信頼し合い、生き方を照らしあって、共に実践していくことができるからのように思います。

この信頼を薄めていくものは目先の不安のように思います。自分が不安にならないというのは、まず自分が信じていることを自分から実践し続けているからのように思います。信じることは安心であり、安心するのは信じる実践によって維持していくように思うからです。そしてそれは自分の価値観を中心に置くのではなく、共通する理念を中心に置くからはじめて共有することができるようにも思うのです。

この糠床と自分との間にも、確かに信がありそこからがつながりと絆がはじまります。

せっかくの機会ですから、菌の実際の生き方や働き方と合致させたところで自然発酵と自然腐敗を学び直していきたいと思います。実践という名の自信を確信に換えていくまで、根気強く真っ新で学んでいきたいと思います。