当たり前の本質

先日、当たり前のことについて話し合いをすることがありました。

当たり前のことを正しく行うということの大切さについては、どの世界でもどの場所でも必ず言われていることです。この当たり前を行うというのは何か、そしてどのことをいうのかということを考えてみます。

例えば毎朝起きることで考えてみると、誰か何かから起こされて起きる人と、自分から起きて誰かや何かを起こす人があるとします。この場合は、本来の当たり前とは他人からや何かから起こされてから動く人ではなく、自分から起きて何かや他人を動かす人であるということになります。なぜなら自らがあるがままに行うことが当たり前というからです。言い換えれば、いつも誰かや何かから気づかされる人になるのではなく、自分から気づいて何かや誰かを気づかしていく人になるのを当たり前を行うという意味になります。

この他人からというものと、自分からというもの、受動的か主体的かともいいますが実際に考えるとは何かといえば自分から考動して実践し周囲を動かしていくことを当然に積んでいくことができるかという意味でそれが当たり前というように私は定義するのではないかと思うのです。

言われてから考えていては、自分を動かし人を動かす人にはなりません。常に自分から動いていくことで「当たる前」から、つまりは当前に自分を動かしているだけだということだろうと思うのです。

よくやらされている人は、この当然のことをしたということはいいません。本来、自分で気づいて行動に換えていく実地実行を日々に行う人だけが真に響き合いを生み出し、そして自発的に道徳に沿って正しいことを行うから「誰に言われなくても当然のことをしただけです」という言葉が出てくるのです。

この当然のことをしているかどうかは、どれだけ日々の出来事に受け身にならずに自分から積極的に正しいことを積み上げていこうという心構えがあるか否かによります。これらの当然のことをしたことを評価していくことを二宮尊徳は「積小為大」という言い方にし遺しています、そこにはこう書かれます。

「大事をなそうと思うなら、小事を怠るな。小事が積もって大となるのだ。大事を望んで小事を怠り、できそうにない難しいことを望んで、やればできるやさしいことをおろそかにするから、結局大事をしとげることができないのだ。」

当たり前のことをまずは正しく理解したら、それを如何に自発的主体的に考動にしていくかが積小為大の実践の第一歩になると思います。何を当然の行いとするか、人任せにするのではなく人生も運命も常に自分から切り開きそれを周囲へ及ぼしていこうと思います。