目標の意義

人生の目標をどのようにするかで、生き方だけではなくその人の在り方が明確になっていきます。

しかしこの目標というものを自利で立てる人と、利他で立てる人がいるように思います。目標が大切なのではなく、その目標は何のために必要なのかを理解している人たちだけがその目標を自己管理に活かせるのではないかと思うのです。

例えば、緒方洪庵に「医者がこの世で生活しているのは、人のためであって自分のためではない。 決して有名 になろうと思うな。また利益を追おうとするな。 ただただ自分をすてよ。そして人を救うことだけを考えよ。」(21世紀のきみたちへ朝日出版社)がある。

これは利他から立てられる目標であり、そもそも自分の行いが世の中の御役に立てるようにと願い適塾の基本理念として指導されたものです。同じく吉田松陰もそうですが、目標が高い人は悟ることやできる人になることに興味があるわけではなくその後どうするかということに重きがあるのです。

目標が低すぎるというのは、自分のことだけを考えてしまって立てている目標のように思います。自利というのは、自分が善ければいいだけで止まってしまいそれをどのように世の中の御役に立てていけばいいかが目標とつながっていないからのように思います。

自分が生まれて今あるのは、周りの皆さんが子どもだった自分をここまで育ててくださった御蔭ともいいます。よく賢すぎる人は自分だけで育ったように勘違いをしますが、明らかに周りの方々のご縁や忍耐強く見守っていただいた方々の教えによって今の自分が形成されているともいえます。

人は自分で育ったのではなく、様々な御恩によって育っているからです。

だからこそ、その御恩をご縁をより多くの人達や世界へ還元していこうとするとき、目標が必要になるように思うのです。何をしてお役に立つのかを決めるのは、自分が高い理想に向かって自利の人よりも、利他の人であろうと決める生き方が定まることに似ていると思います。

常に利他でありたい方を優先することが、 ブレナイ生き方を持つこととイコールのように思います。人を信頼するのも、絆を結ぶのも、人生をより多くの方々にお役に立てるのもこの目標というものの根底にある自利か利他かがあってのことのように思います。

他人の御役に立てるようにしてはじめて、人間を育成していると思います。その人だけをよくするのではなく、その人が世の中を善くする人にしていくことが塾の本質かもしれません。今は大事な分水嶺、目標の在り方について深めてみようと思います。