安心立命の実践

人は無意識に様々な選択をして生きているともいえます。

その一つ一つの選択がどうであったかで、自分の世界がどうなっているのかが決まっていきます。つまりは、今の人生は自分が過去に選択したものの集積ともいるのです。

しかしそれはだからといって自分の思い通りになるのかといえば、人のは運命がありますからその運命の質量に合わせて、自分のいのちの質量も高めていかなければなりません。その一つの安心というものがあります。

世間では、安心というのは、何かをやっていれば安心というように不安が嫌だから何を遣った気になっていたいからと取り組むことで安心を得ています。先日、防災訓練の話がありましたが沢山の書類を書かされてそれを書いていれば安心だからやるという具合です。

これは保育の書類もそうですが、何かをしていないと不安だから沢山の書類を書いていることで自分が安心したいだけだったりもするのです。

自分が不安だからこそ、安心したい時の安心は相対的な安心ですから遣った気になっているときだけが安心という矛盾をはらんでいるのです。

しかし、本来の安心とは何かと言えば、人事を尽くして天命を待つ境地で遭ったり、自力を尽くしていくことで他力が入るというような、自分以外の力で持って物事は解決していると信じ切っているときだと思います。

そしてそれは、遣った気になることではなくて遣り切っているときだけがその絶対安心の境地に入るのではないかと思うのです。

私もお客様のためにと祈るような気持ちで現場に入る時、自分のことは忘れてその人や理念、目標や信念のために行動しているときは無我に近づいていく感じがします。つまりはそれだけ今を遣り切るような生き方をしているときは安心の種を蒔いているのであり、自分都合で遣った気になっていたいときは実は不安の種を蒔いているのです。

全部自分ができると勘違いするのは、自分で遣った気になっているからだろうと思います。そういう自分の力だけでという感覚はとても傲慢なものかもしれません。自信がないからだろうとも思います。

本来は自分が自分らしく、自分を遣り切ったならば後は天にお任せという境地が自信であるということなのかもしれません。

日々に遣り切る、今を出し切るというのは大変な生き方のように思われますが実はそちらの方が楽しいし幸せと感じるものです。子どもたちが今を全身全霊で生きるように、それを見習い安心というものももっと私たちは子どもたちから学び直す必要があるように思います。

世界は変化し、世情も移り変わりますが、脚下の実践を大切に自分にできることに特化していきたいと思います。