至誠こそ自然の在り処

自然を観察していくということは、同時に自然の心の在り処を知るということになります。自然の在り処がどこにあるかを知る人は、自然に自然のことを理解していきます。

二宮尊徳の夜話にこういうものがあります。

「山芋堀は、山芋の蔓(つる)を見て、芋の善悪を知り、鰻(うなぎ)つりは、泥土の様子を見て、鰻の居る居らざるを知り、良農は草の色を見て、土の肥痩(こえやせ)を知る。 みな同じ。所謂(いわいる)至誠神の如し、と云ふ物にして、永年刻苦経験して、発明するものなり。」

これは意訳ですが、山芋堀の名人は蔓を観ただけでその芋が良質であるかが分かり、鰻釣りの名人は、泥を観ただけで鰻があるかどうかわかり、農の達人も草の色を観れば土中の状態が分かる。全て共通するものは純粋に実践し続けることでまるで天に通じているかのようになる。これも長年の真摯な精進によって発明が可能になるのです。と。

つまりは、純粋な心で取り組んでその純粋さを忘れないように自然の心に精通していけば自ずからその真心が物事を察知できるように意味でしょう。

穢れを払うというものは、この純粋さに近づいていくということかもしれません。自分の中にある眼差しの穢れを濁った水が透き通っていくように澄ましていくことで次第に物事の道理や本質がそのままに観えるということでしょう。

生きていれば、自分の中の狭い価値観や先入観、また我執によって本来の自然、つまりはあるがままの世の中の姿を歪めてしまうものです。情報が新しく入れば、頭はそれをパターン化してそのうちにパターン化したものを真実だと勘違いしてしまいます。

まるで赤ちゃんの時のような心や眼差しがあれば、よく周りは見通せますがそれが濁っていく中で次第に物事を自分の方へと都合よく変更してしまうからです。

だからこそ至誠、真心、純粋な心を育てていくことで世の中の真理や真実に近づいていこうと刻苦勉励して精進していけば必ずその実践がいつの日か自然の理に叶うということなのでしょう。

私も自然から学び直し始めて2年になりますが、今まで気づかなかった根の真理や共生の真理、発達の真理など、数々のものを自然に見せていただきました。そこから得たものは大変計り知れないものがあります。

至誠神の如し、至誠天に通ずと念じ、純粋な心、澄んだ魂のままにかんながらの道を歩んでいきたいと思います。