縁愛5

ドイツに来て4日目になりますが、天候に恵まれ美しい景色の中で森の学童保育所を視察してきました。森の中に入ると、自然に子ども心が顕われてくるのはそこに自然を感知する感覚が生きているからかもしれません。

都市化されている社会の中で、大切な感覚を陶冶していくというのはそれまで私たちが自然に行っていた自然の中での営みを忘れないためにあるのかもしれません。脳が優先されているような都市社会では本来の当たり前にあるそれぞれの役割を忘れてしまうのかもしれません。

森の中の木々一つ、松ぼっくりの実の一つひとつに、その役割があることを学ぶのかもしれません。人間愛のテーマの中に、つながりを書きましたがここに役割というものがあることを書いてみます。

マザーテレサにこういう言葉があります。「世の中で誰かに必要とされているという意識です。見捨てられて死を待つだけの人々に対し、自分のことを気にかけてくれた人間もいたと実感させることこそが、愛を教えることなのです。」

愛というものの定義に、自分が必要とされているという実感というものがあります。何か大切な役割があるとその人が思えるならこの世に存在していいという偉大な自然の愛を実感できるように思います。つまりそれがつながりの中にいることを実感できるという意味です。

人は誰かの御役に立てるということほど、自分が必要とされているという実感を得られることはありません。つい、今の社会では自分の都合ばかりで自分が必要とされている有難さに感謝する機会が少ないように思います。

物が溢れ、自分のものであることを当たり前だと勘違いすることから愛が不足していくように思います。愛の不足とは、この物との関係にとても深い因縁があり、自分の物とするところからそれまで私たちがお互いの関わりやつながり、役割を感じて愛し合っていたことを忘れさせていくものだからです。

人間というものは、分かち合い、助け合い、御互いを必要だと実感できることで愛がある中に生きていることを実感できるように思います。こんな自分でも生きていいのかという問いに対し、自分のままでいいから生きてほしいと願う思いやりの中に愛は活きています。

私たちがもともと使っている「有難う」という言葉も、本来はそういうひとつひとつのお役目を天からいただいていることに対して使っていた言霊のように思います。それが人間都合の物が溢れたことで大切に使い切ろうということではなく、その場その場でゴミを捨てるように使いだしたことからその役割がもともとなかったのように意識が変わっていったのかもしれません。

今の時代は何度も何度も有難うという言葉を使わないとお役目に気づく感性は伸びていかないのかもしれません。愛もまた不足するのは、本来、ないものねだりではなくあるものを探してあるものを大切にしていこうとする中に育つからかもしれません。

身近なところから愛の実践をしていくのは、御互いを必要とする関係に幸せを実感し、その役目があることに感謝していくことのように思います。

最後に今日もガンジーの言葉で締めくくります。

「この地上の理不尽に目をつぶることなく、愛ある行いを実践しようとする人がいる限り、わたしたちはそれに続かなくてはならない。」

愛ある実践は、子どもの中に備わっています。
子どもの自然な行い、その宝を見出す感性の中に愛の偉大な可能性が観えてきます。

保育を学んでいくことは、愛を育てていくことかもしれません。