柔軟必要性

どの時代も、時流があり、いくら昔正しかったと言っても同じことが起きているわけではありません。なので何かの真理を掴んだとしても、今の時代に置き換えて咀嚼したものを提供していかなければ先覚者がいくら認めた言葉であろうともそれを活かすことはできません。

今の時代は、たくさんの本が流通し真理や法則は出回っています。

しかしそれをカタチにしようとするならば、今の時代なら何をすることがその真理や法則を行うことになるのかというのは自らが気づいて具現化していく必要があるように思うのです。

例えば、吉田松陰の松下村塾では常に先生が生徒に、現代ならばこれはどういうことかということを生徒に投げかけてそれを議論したとあります。これも、大切なのは真理に従うのではなく自らが真理を体現せよとの教えがあるように思うのです。

今のようにスピードが速い時代には、常に新しくしていくことが必要です。ちょっと前のことがもう古くなるという意識の変化の波の中で、かつてのようなことを同じようにやっても、かつての本質が維持できるものではないからです。

常に本質を維持するには、カタチを変えて現代に合わせていく必要があるように思うのです。その時代時代に、人が顕われてくるのはそうやって道は変化しその変化にあわせて新しい人が必要になるからです。

世代が変わっていくのも、新しい人たちが新しい時代の本質を維持していくからなのかもしれません。そうしてそれは、それぞれの役割や役目を全うせよとの天意のようにも思います。

循環していく社会の中で、ちゃんと役目があるからこそ自らがその役目を前の人から受け継ぎ改善して適応させていくという自立があります。気づきを正しく咀嚼するということは、その真理は今なら何をすることがそうなのかを考え切るということです。

常に本質的であるには、自分の方のズレを修正していく必要があります。それは中心をどこにするのかに似ているようにも思います。

初志貫徹することは、決心していますが時代を観て自分の方を柔軟に変化させていきたいと思います。