劣等感の刷り込み

通知表というものがあります。

通知表を文部科学省のサイトで調べてみると、「保護者に対して子どもの学習指導の状況を連絡し、家庭の理解や協力を求める目的で作成。法的な根拠はなし。 」と書かれています。さらに、「作成、様式、内容等はすべて校長の裁量。 」ともあります。この通知表の歴史を調べてみると、起源はアメリカの翻訳教育学書のようですが驚く事実ばかりでてきます。

実際は単なる家庭との連絡帳のようなものだったものがなぜ今でも優劣表のようになっているのか、そして連絡帳が一方的に学校から「通知」されるものになったのか、本当におかしな刷り込みばかりです。名前の通知というこの言葉もどうしたものかと感じるものです。

どこでもなんでもそうですが、前からやっていたことの意味を考えないのは人間の持つ癖の一つです。なぜそれが行われているのかを考えないままにやっていたら、たいして意味のないものを誰かが間違いで思いつきでやったこともずっと続けられてしまうものです。そうやって間違いの連鎖というのものは、今の時代に引き継がれていきますからちゃんと自分で考え抜かなければならないのです。なぜなら、一度やっていたことは変えてはいけないと思い込むと頑固に意固地になってしまうことが多いからです。

実際に、通知表というものがそもそも何かということを考える人は少ないかもしれません。改めて通知表を見ていると、この仕組みの問題点と課題が観えてきます。

私の子どもの頃は通知表を貰うのがとても嫌でした。子どもは通知表とは何かというのが分かっていませんから数字や〇をみては、周りの子ども達からもバカだと指摘され、人格を否定されるような嘲笑も感じたものです。

そういう時は、先生からのコメントや親からの励ましを救いにした記憶もあります。せっかく指導されても、通知されたものが納得いかないものであれば裁かれたと勘違いするものです。本来は指導計画や指導要領など、その課題を共有し、先生と生徒、保護者、全ての課題を確認し互いに自ら反省し改善するときに使うものです。

以前、ヨーロッパの海外研修で教育施設を視察した時に子どもが自分を評価し、先生も自分を評価し、互いに内省して取り組む姿を観たことがあります。これが連絡帳が道具として活かされている本質だと思ったことがありました。

本来、成績や学力というのは社会の御役に立つ人になるようにお互いに高めていこうと個々の持ち味を高めて共に学んでいくことではじめて身に着いてくるもののように思います・

自分の昔話になりますが中学校のときに第二次成長の性の勉強のところで恥ずかしいからと照れたらそれに怒った先生が授業態度が悪いとそこから何をいっても無視されその学期の通知表に最低評価の1が入りました。実際のテストとは別に品行の優劣を一方的に通知するというのはどういうことかと憤りを覚えたのもその時です。はじめてのことだったので、その通知にとても理解に苦しみ、その記憶と先生はいまでも忘れることができません。

誰かの基準で裁かれたと感じたことは、一生の心の傷に残るものです。

人が誰かの評価を気にして自分を発揮しないようになるのも、この評価を気にすることを刷り込まれたからかもしれません。そして評価には、優劣の評価というものがありこれが一方的であることが問題なのです。

人は劣等感が高まればその逆に頑張りますが、そんなやり方で一時的に学力を上げて本当にそれが将来のその人の幸せを実感できるように生きられるのかとといえば疑問ばかりです。

何でもそうですが、思い込みで動き、思い込みで勘違いすることが多いからこそ、本当のその意味を考えて自らで正しいものにしていかなければなりません。