仕事一魂~自物一如の精神~

仕事というのは、元来はどのようなものかと考えてみます。

辞書には「 何かを作り出す、または、成し遂げるための行動。「やりかけの―」「―が手につかない」 生計を立てる手段として従事する事柄。職業。(yahoo辞書より)とあります。

一般的には、仕事とは会社に入り自分の与えられた役割を果たしてその報酬を貰うという感覚があります。例えば、仕事を発注した人と発注された人の間で何をしてもらうのかを決めてそれを行い結果を出すといった感じです。しかしそれで仕事が成ったかというと、それはまた別ものであろうと私は思うのです。これはその仕事と定義しているものの質によるからです。

ものづくりの人に本田宗一郎があります。以前、静岡のものづくり伝承館に訪問しその歩んでいきた生き方や生きざま、そこに展示されている商品を見てきました。そこには、数々の道具たちや、生み出したそのもの、また物語や声、手の傷痕まで紹介されています。その際に、如何にそのものと一体になってその人が生きたかというのを実感したのです。

そのものに本気になるというのは、その物と一体になるということだと思います。これを自他一如と言いますが、その人と自分を分けない、そのものと自分を分けない、仕事とプライベートを分けないというように、自分の全てを「没頭」させるほどに全身全霊の全てを懸けて取り組む中にその本田イズムを体験したのです。

その仕事にどれだけの魂を籠めたか、その仕事にどれだけの命を懸けたか、そして自分の持つあらゆる魂の全てを注ぎ込んだかということがその軌跡から実感できるのです。自分のことなどは入っていない、自分がどこにいるのか分からない、つまりはどれも他人事などが入り込む余地がないものが元来の仕事の本質であると気づくのです。

本田宗一郎が言う、やりたいことをやれとありますがここでのやりたいは中途半端なことでありません。 全てに遣り切っているから、どの仕事も本人そのものであったのだと思います。仕事を趣味にし、仕事に生き甲斐を感じ、仕事が大好きであったその人の生き方から、私たちがつまらない刷り込みの中で働いていることに戒めを感じました。

これはやりたい仕事があったからそうなったのでしょうか、そうではなく全身全霊でどの仕事にも本気で没頭したからやりたいことが観えていた状態だったのではないかと私には思えます。

その時、人事を尽くしているので天命が観えてきます。やりたいことは何かもそういう時にこそ顕われてくるように私には思えます。強みにいつまでも特化できないのは、やらなくてもいいことに時間を費やしてしまうからです。

没頭するほどに取り組んでいるか、その仕事と一体になるほどに遣り切っているか、仕事か自分かの違いがないくらい本気でやっているか、自問自答は今を中途半端にやろうとする自分への自戒にしていこうと思います。ダイヤも磨けなければ、使う場所が合わなければいつまでもただの石ころです。

ものづくりの魂を持った日本人の鑑として、先人の歩んだ生きざまを誇りにして自分も新たな創造という仕事、その変化への挑戦に突き進んでいこうと思います。