ゼロベース~本質主義~

前例主義という言葉があります。よく役所や行政で使われていますが、同義語には保守精神 ・ 形式主義 ・ マニュアル主義 ・ お役所仕事 ・  事なかれ主義などがあります。

あまり良い例では用いられず、形式だけを取り繕ったことをやるときに使われている言葉です。

そもそも前例主義とは何かと言えば、何のためにそれを行うのかという目的や動機を忘れ、今までの事例を探して難なく結果を出したいというときに発生するもののように思います。つまりは、前にやった人のやり方が正しい、自分はそれをやることが正しいというような理由で、元々の意味を自分自身で正対せずに単に取り組んでいるもののことを言います。

そもそもその仕事や、その行っている出来事は何かということを考えていたら多忙な世の中では仕事にならないという考え方があります。しかし本来は、その仕事は何かを考え抜いて本質的にしていかなければ本来の仕事にはならないというのが本質的な考え方であるのです。

もちろん脳が習慣化し、身体もそれを覚えて自動化していくのが人間ですがそれが何のために行うのかの方は実際はその都度初心に帰り、真摯に取り組まなければ本質から離れてしまいます。

特にルーティンの仕事や、繰り返し積み上げていくようなものは常に本質から考えて取り組むことをしなければ次第に前例を当てにして何となくやっているだけになり自分と向き合ってまで考えなくなっていくものです。

人は心にどれだけの信念を醸成するか、そして内省を怠らないでその意味を忘れないでいるのかはまるで魂の胆力のような根っこに強い吸着力が必要になります。その意味一つ一つをなぜそうなったのか、そして何が為り、何を創ろうとしているのかを常に思っていることがいるのです。

創業期のようにゼロからはじめているときは、前例などはなく常に初めてものだから動機や心が入りますが2期目、3期目など後から続いてきた人たちというのは前例や周りに合わせていこうとゼロからなることに意識を合わせにくいのかもしれません。働きにくいと思うのは、働くということが前例に囚われている証拠かもしれません。

自分を恒にゼロベースにしておくことは、自分が何のためにこれをやるのかという動機を常に忘れず取り組んでいくことだと思います。前例主義に陥らないように、常にゼロから考えるという実践をどれだけ積むかで余計な自分だけの価値基準や不安から無難を目標にするような意識を掻き消していくように思います。

本質的な人は常にゼロベースですから、毎回刷新し進化発展を已まないのです。常に日々はゼロベース、そして新しいことへの挑戦もゼロベースであると、本質主義で進めていこうと思います。

遣り切るということの意味

人生というものを考えてみると、せっかく生まれてきたのだから人は何かをしようとします。人は体験を通して自分の役割を知るものだから体験をどのように遣り切るのかで自分のことを知るのです。

例えば、人生には誰かが設けた答えというものは存在しません。その人の答えはその人にしかないからです。なぜなら、答えというものが人生の結果であり、その結果をどう出していくのかはその人の体験こそが真実だからです。

その人の体験が真実だからこそ、その人が遣り切ったのち、それが何であったのかをその人が答えを出すのです。人は何かの教育で答えがあると思い込まされてしまうと、何かの答えを探すために問題の解き方ばかりに意識を攫われてしまいます。

しかし実際に解き方ばかりを考えても、企画倒れで何もしていないまま考えているだけになってしまうことが多いのです。もしくは遣る前に考え過ぎてしまえば、終始無難や問題があまり起きない方法論ばかりが良策であると勘違いしてしまうのです。

本来の挑戦というものは、目的や本質を事前に考えたとしてもそれ以外のことはあまり考えず感じたままに結果を出すために取り組み、その後の余韻でふり返り内省して改善するという流れで取り組むものです。これは体験を重視しているものであり、やってみてもいないのに先に決めたり諦めたりしないということで常に優先していくのは何が起きてもそこに答えを見出すのは自分という実践が存在するからです。

人はつい答えがどこかにあるものだ、誰かが持っているものだと探してしまううちに自分が出す答えを人任せにしたり、どこかの誰かが出してくれる答えを当てにしてしまうようになっているものです。そうすることで、実際の当事者意識や自分で遣り切るという気持ちが停滞していくのです。しかし本来、「答え」という結果とは、自分の人生の中にあるものでその答えを出すのは自分しかないからこそ全てに遣り切った人生でいる必要があるのです。

もしも一度しかない人生だとしたら、誰しも遣りたいことを自分で体験したいと願ったはずです。しかしつい世の中の常識やルールの方が正しいと思い、安逸に次第にそれに合わせて生きる方が楽だとなると遣るという意味さえも勘違いしたくなるのです。本来の遣り切るということは、人生の答えを求め続ける真摯な実践の中にある言葉です。信じているからこそ、体験を遣り切ることができるのです。

そして実際の人生は、自分が体験したことが最も正しいのです。それがどんな人生であれ、自分が遣り切ったのであればそれが答えであり真実なのです。遣りたいことをやらせてあげる、そしてそれを見守るということは、その人が大好きなことをいつまでも大好きでいるために自分を諦めないことに似ているのです。

そのためには心の底から、命を燃やし、全てのことを意味があるとし体験を徹底的に遣り切って答えと向き合い、プロセスを通じて自分の答えを一つ一つ確実に出していくことだと思います。

何でも体験したことが尊いと思えば、失敗もまた貴重な人生そのものになっていきます。遣り切ることを大切に、自分の答えを大切に、見守られている存在に感謝して一度きりの人生と正対していきたいと思います。

和楽という筋道

物事には筋道というものがあります。

これは根源的なところから考えてどうあるべきかを正したもののことを言います。

例えば、この世は循環しているのだから自分のことだけで生きてはならないとします。これはそもそも繋がっていないというものはないのだからいつも周りに感謝して善い影響を与えつづけていくことが大切だという筋道を示すものです。

このように先人たちの遺した時代時代の格言や箴言というものは、その筋道を通さない人たちが横行して世の中が乱れ、本来のあるべき姿から遠ざかったときに顕われるものです。

子ども達についてもそうですが、伝承していく中での筋道を大人が教えていく中で子どもが将来、自分たちが筋道から外れても戻ってこれるように、大きく道筋から離れないようにと親が見守る中で躾を示していくようにも思います。

日ごろのちょっとした言動や行動から子どもは筋道を学んでいくように思います。正直でいる、素直でいる、感謝でいる、謙虚でいる、そういうひとつひとつの中からこの天地自然の法理を感覚で掴み取っていくのが育成していくということであろうと思います。

子どもが本物を好きなのは、子どもは天地自然の法理を生まれながらに体得していてそれをどのように具体的に社會で活かせばいいのかを学んでいるからです。身近な大人たちの実践する姿こそが、模範やモデルになるということを常に自戒していくのが大人の役割なのかもしれません。

かつて、聖徳太子が十七条の憲法を発信して民衆にモデルを示そうとしました。役人に向けてとありますが、これは自らがモデルとしてどのような筋道を立てるのかを戒めたもののようにも思います。本来の日本人としての姿を忘れてはならぬという初心と筋道を示すのです。

漢文を現代に簡易翻訳したものですが、そこにはこうあります。

第一条
人と争わずに和を大切にしなさい
第二条
三宝を深く尊敬し、尊び、礼をつくしなさい(三宝:釈迦、その教え、僧)
第三条
天皇の命令は反発せずにかしこまって聞きなさい
第四条
役人達はつねに礼儀ただしくありなさい
第五条
道にはずれた心を捨てて、公平な態度で裁きを行いなさい
第六条
悪い事はこらしめ、良いことはどんどんしなさい
第七条
仕事はその役目に合った人にさせなさい
第八条
役人はサボることなく早朝から夜遅くまで一生懸命働きなさい
第九条
お互いを疑うことなく信じ合いなさい
第十条
他人と意見が異なっても腹を立てないようにしなさい
第十一条
優れた働きや成果、または過ちを明確にして、必ず賞罰を与えなさい
第十二条
役人は勝手に民衆から税をとってはいけない
第十三条
役人は自分だけではなく、他の役人の仕事も知っておきなさい
第十四条
役人は嫉妬の心をお互いにもってはいけない
第十五条
国のことを大事に思い、私利私欲に走ってはいけない
第十六条
民衆を使うときは、その時期を見計らって使いなさい
第十七条
大事なことは一人で決めずに、必ず皆と相談しなさい

和という考え方、つまりは調和していることを何よりも筋道としなさいという教えでありこれはそもそもかんながらの道に通じる実践を行うようにという根源を示しているのです。

私たちは常に自然と一体になって、すべてを融和しながら和楽を重んじて歩んできた民族です。対立し、二極化していくようなものではないのです。そういう在り方を具体的な憲法で示したことが尊いようにも思います。

子どもたちのことを思えば思うほどに、本来の日本人の民としてどのように生きていけばいいか、先人の智慧を今に回帰して活かしていくことではないかと思います。自分のできること、自分にしかできないことで一緒に和楽という生き方で筋道を広げていきたいと思います。

対処療法の果て

医療でも教育でも福祉でも、現代は様々なことが事業によって行われています。

古来はそういうものには特に分かれず、それぞれの役割をそれぞれで果たすことを中心に分化していたようです。様々な問題が発生していけば、新たに新設して対処するという対処療法が優先されていますがそれではその場は凌げても長い目でみて解決したことにはなりません。

例えば、戦争などもそうですが武器を禁止するとかしないとか色々と国際社会の中で強大国が弱小国に対していくら圧力をかけたにせよ、その根源の問題を解決していないのだからそのうちまた同じことを繰り返してしまうのです。

核実験の件も、化学兵器の件も、なぜそのようなことを起こすのか、その根源的な問題について話し合いをしていこうとしなければいつまでもまた似たようなことは続くのです。

根源的な問題とは、最初に必ず動機がありその動機が何であったかを問うことに似ています。動機を問えば、その問題が何によって起こされているかも知ることができるからです。

例えば医療でいえば、強烈な副作用のある薬を投与してもOKになっているのは対処療法としてはそこだけを攻撃できるのですが根源的に全体に与える影響はかなり大きいものでも使えることになっています。

食品でも、腐敗しないためにと防腐剤などの添加物を入れますが対処療法としてはそれでもいいのでしょうが長い目でみて根源的なものを考えてみると決して安易なことにはなりません。

ゴミの問題も、環境の問題も、対処療法ばかりをしていてその場だけよくしていることをさも素晴らしいことをしたと報道したり評価するのでは誰も根源的なことを解決しようとは思わなくなっていくのです。

結局は、環境問題とか健康問題とか、福祉問題とかいうよりもそれは対処療法なのか、根源療法なのかを見定めてどうあるべきかを問い直すことの方が重要であろうと思います。こんなにわけのわからない程に複雑になったのは対処療法ばかりを増やしているからです。

対処療法はやればやるほどにやることばかりが増えていくものです。根源療法をやれば次第にシンプルに合理的に融合的に減っていくものです。

本来の生活スタイルを維持することや、本来の仕事の本質に立ち返ろうとすることは物事を正しく循環する方へ根源的な方へと転じていくことの似ているのです。

そう考えれば日々は常に本質と向き合っている個々の正対により社会もまた改善していくことができるように思います。自分が余計なことをしなくてもいいように、常に根源を見つめて実践していきいたいと思います。

自然の修養

自然農に取り組み、漬物をしていく中で腐敗と発酵について学び直しています。

郷里の高菜漬けを実践していると、地域や風土にあわせて色々と工夫してきた先人の智慧を感じる事ばかりです。昨日も、これからの高菜の種を蒔き春が待ち遠しい思いです。

腐敗と発酵については、人間にとって都合が悪いものを腐敗といい良いものを発酵と定義しているようです。人間が中心になって、物事をみればすぐに対立の考え方が出てきます。それは大前提として自分にとってどうかというところから物事を考えてしまっているからです。

しかし実際の腐敗と発酵を深めて観ていると、行っていることは同じく循環の理の中で微生物たちが自分の使命を果たしているということには変わりありません。

つまりは様々ないのちがそれぞれに役割を果たしているのだから全部善い、つまりは最善・至善ということです。この世は、全てが食べて食べられる関係でいのちが助け合っています。言い換えれば、互いのいのちを支え合うために互いに分け合って譲り合って存在しているとも言えるのです。

それを自然の中から見出し、その自然から手ほどきを受けて自然の技術を学びとりそれを活かして自分たちが食べ繋ぐための工夫にしたのがこの発酵腐敗の循環の技術です。

水や、空気や光、風、そして土や塩などを上手に組み合わせてどの状態の時が私たちが食べられるものになるのかを知っているのです。そしてそれは同時に、全ての生きものに対して分け合い譲り合う技術を使っているとも言えるのです。

如何に自分に利益が出ることを周りにも同時に利益を発生させていくか、周りが利益が出ることで如何に自分も利益が出るのか、それをどれだけの全体の広さや深さでやっていくのかに自然の智慧が働いているのです。

常に全体のためにと働くのであれば、常に自らを利他にしていかなけれなりません。言い換えればそれは感謝を土台に恩返しをしていこうとする実践が大前提になければ稼働していかない智慧なのです。

周りをよりよく活かそうとするのは、全てのいのちを活かそうとする心のことです。
心の本体に気づくものだけが、自然の技術を学べます。

心を磨き、心を大切に様々ないのちと共に修養していきたいと思います。

 

大和への回帰

戦前戦後に、言論統制や公職追放が行われたということはあまり私たちは意識しないように思います。実際は、戦争とは一部の人達が強烈な力によって何かを抑止して働かせていくものです。

人の命を奪い合うことを国民が望むはずもなく、国家のためにと全国民が戦争に協力するということを行ったのは後にも先にもないことだからです。

実際には、戦前も国家の優先する思想に反する人たちは憲兵が監視したり投獄したり追放したりと様々に迫害され、また戦後もGHQから厳しい言論統制や思想管理が行われ約20万人以上が公職追放といって社会から隔離されました。

私たちがそれまで大切にしてきた文化や思想、また受け継いで継承してきたものもそこで一度否定され、私たちはその否定の上に今の暮らしを創っていったのです。

先日、一緒にお仕事をする方から古事記のお話をお聴きしました。

そこには、西洋では「つくる」という考え方が根底だけれど、東洋には「なる」という考え方が根底にある。古事記にはその「なる」という自然の言葉で形成されているということです。

そう考えてみると、自然になるというものはそこに感謝が根底にありその感謝の上に私たちの暮らしを敷いていたということです。これは言い換えれば、恩返しをしようと日々に感謝で生きてきたのが私たちの思想の中心にあったということです。

社会の根底を何に据えるのかというのは、その国の文化の根源になっているように思います。いくら何かをしたからとなくなるようなものではないことを証明することは、この日本がいつまでも世界が尊敬するような道徳心を失っていないからです。

有事のとき、日頃忘れていても必ず思いだし私たちは思いやりを通して助け合おうとしていきます。その時の私たちの根底には大和の精神があるともいえます。その大和の心をどのように日頃から使い暮らしていくかを大切にしてきたのが私たちの生活であり政治であったように思います。

吉田松陰の草莽くっきとは、そういう根から湧き上がってきたものでこの国を豊かにしていくという民草の精神のことを説いたのかもしれません。自分の中から出てくる大和の心がなっていくのを育成し、日々の大和への回帰を楽しみたいと思います。

神話の生き方

神話を紐解いていく中で、私たちが如何なる民族であるのか、どの生き方を大切に今まで生き延びてきたのかを考え直すことができます。

世界では数々の神話が存在し、その民族の創始理念ともいうべく何を道にして歩んでいけば善いかを示しています。もともと文書ではなく口伝であったものが、失われないようにと文書化されて今に現存するのでしょうが本来はその民族の歴史そのものを神話といっても過言ではないのです。

その始まりがどこか、そして今にいたるまでの道筋のことを歴史と言い、今と歴史を見つめることがより善い未来への道筋を見出していくことになるのです。その時々の内省によって私たちは何を大切にしているのかの初心を思い出すとも言えます。

歴史の重要性は、ドイツの歴史学者ランケが「その民族を滅ぼすには、まずその歴史を抹殺し、次に別の歴史を作ってこれを信奉させることだ」というようにその民族としての自ずから湧き上がってくる生き方を別の生き方に刷り込み洗脳すれば本来がどうであったかを忘れ去られてしまうのです。

これはブログで書いた野菜の種の話と同じで、F1種や遺伝主組み換えなどをし、一番初めを操作して洗脳してしまえば後は何が元々の野菜か分からなくなるのと同じです。最初を書き換えられてしまえば、自分が何者であるのか、何をしてきたのか、何になるのかが分からなくなるのです。

この信奉させるということが、繰り返し塗り替えた歴史を教え込ませることでありそのように歴史は改ざんされて今まで来ているとも言えるのです。歴史学者が警鐘を鳴らすのはすべてに正しい歴史を継承していくことの重要性を説くのです。

またイギリスの歴史学者アーノルド・トインビーは、「12、13歳くらいまでに民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる」と言います。どの民族も祖父母から孫へと、父母から子へと自分たちがどういう民であったかと話をしてきたのが歴史であろうと思うのです。

その歴史の考え方を悪用するというのは本来の自然というものを操作しようとする試みでもあろうとも思います。

しかし私は楽観的で、F1種の時にも話を聴きましたが自然は治癒力がありどんなに操作して種を改造しても必ず元に戻ろうとする力があるといいます。何千の種の中からもとに戻ろうとする少数の種が生まれそれが淘汰された種から生き残るというものです。

自然は私たちが生まれるずっと前から私たちを生かしてきたものです。その存在は、私たちがいくら操作しようがそれは目先を操作したのみで必ず中心は別のところになっているのだから原点回帰されていくのです。

だからといって生き方の継承こそが歴史なのだから、自分たちが真の生き方を示していこうと志していくことが大切なことのように思うのです。生き方と働き方の一致とは、日本人としてどう生きるかに必ずつながっています。

神話から沢山のインスピレーションをいただき、学び直した実践を積んでいこうと思います。

自他一体事

人はどれだけ未来を見通しているかでその危機感も変わります。自分のことしか考えず、自分のことしか見えない場合は当事者意識というものは持ちにくいものです。

例えば、目の前や身の回りのことから考えているとその短い狭い大雑把な範囲でしか予想を立てることはできません。それが長期的で広範囲な洞察によるならばその予想はより綿密になっていくのです。災害などもそうですが、目の前に起きていないことは起きないと思っても突然目の前に現れれば焦るように、人は起きていないことについては当事者とは実感しないのです。

次第に近づいてくる変化には弱いもので、突然や急激な変化には対応できてもジワジワと移り変わっていくことについては目には見えないものだから気づきにくいのです。

しかし実際は、経験をたくさん積んできたり当事者意識で未来を見通す必要のある責任あるリーダーたちは今のタイミングを外したら、この先の将来に大変なことになるということが分かっているのです。

実際、どの組織でも会社でも今の危機感をどれだけ真剣にもっているかでその差が開いていくものです。今、それをやらなかったら将来どうなるかが観えるかどうかは、その人の問題意識や危機感の差になっているのです。

世界のことを考えたり、子どもの未来を考えれば考え切るほどに、この先の数年後がどうなるかを予想できるものです。ニュースをみたり、身近な現場の変化を実感すればそれははっきりと明確に観えてくるものです。今をどれだけ真剣に見つめているかで歴史も未来も全て見通せるからです。

そういうものを自分の問題として危機感を感じて、今、このタイミングで何をしなければ将来どうなってしまうかということを深く洞察するからその人はリーダーになるのです。

つまり危機感と問題意識とは、持てといっても持てるものではなくどれだけ未来を見通し自分が今何をすべきかを持てということのように思います。未来を見通しているからこそ、危ないと感じて見誤らない選択を常に判断していくという覚悟がいるように思うのです。

なぜ、この人はこんなに凄味があるのだろうや、危機感があるのだろうと感じるのは、その人には明確な未来のビジョンが観えているからです。どれだけの広さで物事を観るか、どれだけの深さで観るか、どれだけ自分の責任として観ているか、どれだけ本気で観ているか、などすべて観る視点によって変わっていくのです。

リーダーを学ぶということは、自分が観えないところを観ているのではないかと自分の視野の狭さを戒め、そのリーダーの見通した未来やビジョン、今を洞察する力を育てていくしかありません。

それは、自他一体に自分の問題として全体のことをどれだけ捉えることができるかによります。偉大な広さで物事を常に考える、そして向き合い自分がどうしたいのかを決心するその連続にこそ当事者意識の芽があるように思います。

他人事にしていると、他人任せにしていると、そのうち未来が見通せなくなっていくものです。他人事にしないのが危機感を育て、自らの先見を明らかにしていくのです。

常に未来の全ては自他一体事として考え切っていきたいと思います。

日本源語

言葉や言語というものは、本来はその国の発祥から今までの文化を伝承して生まれてきているものです。私たちの日本語も、本来は日本人であるがゆえに使っているはずのものであったのです。

しかし明治以降、西洋の思想や文化を吸収して自国のものにするために言語を翻訳し西洋の事を理解できる言葉に日本語を変換し、西洋日本語というようなものにしてきたように思うのです。

今、私たちが使う言葉も実際は西洋の意味で使われていることが多いように思います。

例えば、グッドという言葉も良いと使われますが善いという字の日本語は西洋の良いという意味とは異なっています。日本の善いというのは、至善のことであり全てを「ことよさし」と受け止め受け容れ転じていくことを善いというのです。

しかし今の時代の善いという意味では、良し悪しの善いになってしまうのも本来の西洋の言葉で翻訳された日本語を使っているともいえます。他にも身近では、環境とか調和とか、循環とか、そういう言葉一つ一つが西洋から入った考え方や思想で使われ、本来の日本の思想の入った言葉では使われていないのです。

循環という言葉であっても、血液循環などの丸く流れるというサークルという意味で使われますが日本の循環では円満という全てのものが結びつながるということで使われていたのです。この結びという言葉もご縁と同義に使われるものであり本来の西洋人で使っているジョイントやミートなどという意味ではないのです。

日本語というものをちゃんと学ぶということは、人間である前に私たちは日本人であるという「源語」を学び直すということのように思います。

日本人とは何か、日本とは何かを学に民族学がありますが稲作からはじまり今にいたるまで何を食べて私たちが生きてきたか、その暮らしを通して何を大切にしたのかを伝承することが日本人として今を生きる私たちの故郷を鑑みていくことのように思います。

この故郷でさえ、西洋のホームタウンという言葉と同じではないのです。そういうものをひとつひとつ根源から紡ぎだし、本来の私たちの言葉が何を語るのかを自覚することが日本人に近づいていくことのように思います。

英語を勉強する前に、日本人になることが先であろうと思うのです。英語がしゃべれないのも、英語の持つ意味と日本語の持つ意味が理解できないからのように思うのです。私たちは、物音ひとつ、食べ物ひとつ、生き方ひとつ、全て異なる文化の思想の中にいるのです。

その思想をひとつひとつ紐解いて日本というものを生きることが、民族を伝承していくことのように思います。世間をみては、暮らしも政治も社会も日本らしさというものが何かということを実感しにくくなっているように思います。

今一度、日本の心、日本の精神、日本という言葉を再発見していきたいと思います。
私たちが世界へ伝えていくお役目に、この風土体験で昇華してきた日本文化があるのです。

言葉の理解から習い直していこうと思います。

本番意識

人は本番意識というものをどこまで持てるかでその質を維持していくものです。

例えば、いくら危機感を持てといっても本番だと想えといっても実際には現実がそうなっているわけではないのですから訓練というものはなかなかできないものです。何かの防災訓練でも最初は真剣にやっていても次第にそれが単なる業務のようになってきて次第に簡素化したり省力化してその危機感も低くなっていくものです。

地震や震災でもそうでしたが、3.11であれだけのことが起きたとしても数年経てば馴れが出てしまい次第に気持ちにゆるみが出てくるのです。特に目先のことに関しては人は優先して取り組みますが、本来の大事なことや長い目でみて大切なことは御座なりにすることが多いのです。

そういうものを忘れないために「訓練」というものがあるのです。

その訓練とはどのようなものかといえば、常に本番という意識が必用です。そしてその本番意識とは何かと言えば、最悪の事態を考えるということです。それは震災や天災でいえば、想像をはるかに超えるような最悪の事態を大前提として訓練をすることです。

例えば、思ってもみないことが次々に起きる。相手は自然ですから、津波も竜巻も台風も水害も火災も「まさか」と思えるようなことの状況で真剣に行えばいいのです。これはそういう災害のことだけではなく、日頃の仕事でもまさかこんなことが起きるかもしれないと最悪の事態を考えて常に本番だと真剣に遣り切ることも言うのです。

他でもうちでは毎朝、みんなで訓練しているものもありますが、最悪を想定していないで行っているものはどこか弛緩していて次第に質が低下しているものです。

人は安易に考えるところから、自分の都合を入れてくるものです。大丈夫と信じて天にお任せして生きる天道と、人事を尽くして最悪の事態を想定して最大限本気で準備して生きる人道は必ずセットで成り立っているのです。これをはき違えて、信じるから最悪を考えないとか、最悪しかないからお任せしないというのは本末転倒です。

危機管理やプロ意識というものは、自分の中にある安易な発想を何処まで削除し、油断をせずにいつも気持ちを引き締め続けていることに似ています。それは、常に自分の感覚を大事に備えて落とさないように油断大敵を戒めて初心の刷新研鑽を積んでいるのです。

体験したことを忘れずに改善するというのは、体験を尊び、その体験を高め続けて学び続けて油断なく精進を怠らないということです。言い換れば、常に今、人、出来事、ご縁、それらと自他一体、自他一如であり続けるのです。

どんな仕事や業務をするとかのその前に、自分の心構えが安易ではないか、自分の姿勢に油断があるのではないかと内に省みてそれを正していくことが実践というものです。

常に実践現場は本番であることを決して忘れず、日々の訓練、日々の鍛練、日々是道場と稽古に励んでいきたいと思います。妄想遊びのような日々にならないよう、真剣勝負の日々を味わっていくような実践を楽しんでいきたいと思います。