新古今の人生の証

人は生き方を通して人と出会い、働き方を通して生きることを学びます。

つまりは人生を歩むとも言えるのです。

昔を懐古しつつ恩師の御祝アルバムを創らせていただいているのですが、人生を共にする時機を見つめればその二つの出来事を知るのです。

今の時代はどこか人生を分けて考えている人たちが増えています。人が生きるということは何かを分けて考えるのではありません。分けないというのは、もともと一つの人生があったこと全てを分けないで遣り切ることを言うからです。

もちろん自分を中心にして観れば出来事は自分のことと他人のことと分けたくなるのでしょうが、それでは生き方と働き方が分離してしまうのです。何よりも勿体ないことであり、どんなことでも日々を全身全霊でいればいるほどに自他の境目も生き方も働き方も一致してきて、一つの人生の旅路の醍醐味を楽しんでいくことができるのです。

単に自分を納得することよりも、誰かのために生きようとすること、そして誰かと共に歩んだことを学びつながりを内省し新たに改善していけることが自他を磨き光らせていくことができるのです。始まりと終わりが一つであるように、一つの中にその輝きも煌めきもまたあるのです。

昨夜も不思議な機縁を感じましたが、ちょうど私が恩師とはじめて出会うのは今の歳と同じ頃になります。つまり私の今の歳がちょうど恩師から指導していただいたときの恩師の齢と同じです。あの頃は、だいぶ年上の先生というイメージでしか観えなかったものが今ではその同じ齢になり当時をふり返ってみると「ああ、そうだったのか」とまったく異なる世界も観えてきます。

当時、必死で真剣に私たちと向き合い指導してくださっていたこと、何よりも本気で人生を私たちにぶつけてきてくださっていたこと、こいつらの人生を強くしようと深い愛で接してくださっていたこと、それを今の齢の自分に置き換えて実感できるのです。つまり今の自分の生き方と働き方から恩師と一致させていくことで同体験を味わうことができるのです。

そうして、その尊さやその有難さを背中から学んだものを今度は自分が正面から誰かに学びを与えていく番になったのです。恩師であったものが同志でもあったという新たな場所に立ち、不思議なご縁を感じて幸せもまた倍増するのです。

一つ一つの思い出を整理していると一生懸命に共に真摯に生きた人生の証が新古今に滲み出てきています、当時と今との人生を回転させて観る新たな邂逅ともなりました。こうやって分かれていななかったものがつながるのもまた学びです。

この歳になるまで温めてこれた出会いにまた感謝しています。
有難うございます。