自助気努力

体力、気力というものがあります。

人には基礎体力として、身体がどれだけの運動量をこなしていけるかというものがあります。これは元々の筋力やエネルギーがどれくらいまで出せるかというものです。人により、その持っている量はまちまちですが一気に出せる人、コツコツ出せる人、それぞれに異なります。

そしてもう一つに気力というものがあります。これは精神力とも言い、その人がどれだけの意欲があるか、意思が強いか、最期まで諦めずに信じたままに取り組めるかというものです。これは、自信が関係しているもので自分に克ち行動することができて目標に対して妥協しないで取り組んでいく姿勢そのものでその強弱が異なるように思います。

いくら体力だけあっても、気力がなければ勝負にはなりません。

気力というものは、とても重要なもので先に諦めるというのは先に自分との勝負に負けてしまっているということです。自分との勝負に負けてしまっているのに、相手と闘えることなどは当然できることはなく最終的に勝ち残っていくことはないからです。

毎回、難しい試練を迎えるのは高い目標があるからです。その高い目標に向かって、一つ一つの壁を如何に突破していくか、如何に自分に打ち克っていくか、そこに新しい自分と出会う機会があるのです。

常に今の自分を刷新していくというのは、常に新しい自分に出逢い続ける努力が必用だと私は思います。そこには、気力の育成がまずありきで何とかしてでも遣って遣ろう、何が何でも諦めずに自分に打ち克とうと限界を超えるような練習メニューを日々にこなして、努力精進してはじめて揺るがない自信と共に心技体が合わさり一流になるのです。

はじめはみんな自信がないものです。その自信を持つために、必死に努力することを学ぶ事で人はみんな新しい自分を手に入れるように思います。その時、励ましてくれた人、その人を諦めないでいてくれた人があったから、その人は信を得るのかもしれません。

人が育つというのは、自助気努力を得て後、信が入るのでしょう。

周囲のために、さらに時間の質量を高めて機会を活かしていこうと思います。

基本とは

人はどんな時に基本を身に着けるかといえば壁を乗り越える時のように思います。

何を以って基本というのかは、その心の態度や姿勢が動じなくなることのように思います。

例えば、何かを決めたとします。すると、それを達成するためにはその都度自分に打ち克っていかなければなりません。様々なことから自分が決めたことを自分が先に負けてしまっているのでは勝負はそこでついてしまっているからです。

諦めないという心は、何よりも大切なものですぐに諦めてしまう自分の心の姿勢を直すことができなければどんなにテクニックだけを持っていても肝心な仕合では克てないのです。

自分に打ち克つというのは、自分で決めたことに対しての練習を続けていくことです。気分で仕合うことなど人生道場では許されることではありません。

どんなことがあったにせよ、生まれてきて真摯に遣り切ると決めたならどんな時でも自分に打ち克てるかどうかが仕合の心構えのように思うのです。

人にコンサルティングすることも、コーチングをすることも、そのテクニックは本などでもそれぞれでさまざまな方法が紹介されているものです。しかし、実際は己に克つということを教えていないでそのような技術だけが先行してもその人の個性を引き出すことはないように思うのです。

その人がその人らしくなるには、その人が自らに打ち克って自信をつけなければならないと私は思います。壁を超えて困難を楽しみ、そして前進することに感謝できる時にだけ、融通無碍の自由自在の境地を味わえるように思うからです。

人と会う仕事での一期一会も、応用ではなく基本なのです。

その基本は、具体的には自らがどのようなケースやパターンでも自分の最善を尽くせているかということです。そしてそれができているのなら、必ずその出会いは最幸最大のものであったと言い切れるものになっているのです。

常に日々の中で先に自分との闘いがあることを忘れないことのように思います。

心で浮かんだことを一瞬にして判断し、それを実践する強さとは基本のことなのです。
基本を身に着ける人が増えていくよう、心構えを決め直したいと思います。

 

実に為る

自然農に取り組む中で、年々日々に次第に様々なことが実になっていくのを感じます。

それは天候の中で右往左往し、作物の成長過程に試行錯誤し、その時々の環境の変化に一喜一憂をしてきた経過が実になっているようにも思うのです。

一つのものが実になるまでに、私たちは多くの出来事を必要としています。

今の時代の安易で便利な人間農とは異なり、自然の中で育てていくということはその全てを有難いと謙虚に念じつつ歩ませていただいているという実感を得るのです。

実というものは、単に見た目が実になったかどうかではなく、その過程が実であるのです。

その過程をどのような環境の中に置くかというのはとても大事なことのように思います。ビニールハウスで肥料や農薬を使い、過保護過干渉な環境で育ててもその見た目の実は同じように大きくなり、形になります。

しかし、厳しく慈しみ深い自然の中で自然と共生しつつ互いに貢献しあって揉まれた環境の中で育ったものはその実は多少小さくても中身はとても詰まったものが穣るのです。

生きるということは、単に形だけがそれなりになることを目的とするのではなく、その人生の体験や経験を如何に充実させていくことができるかということであろうと思います。

だからこそ、何が自然であるかを理解したならば自分の人生体験を如何に大切にしていくか、不自然を已めて自然に感謝しつつ謙虚に日々を生き切っていくかを勇気を出して選択していくことが何よりも重要なのです。

実がつくものは、日照り、風、そして時には水、さらに新鮮な空気に豊かな土壌、多くの虫たち、周囲の草花の中で自分の役割を全うするときにこそ実を践み全うすることができるように思います。

その全てを人間都合にしていくことなど、とても勿体ないことをしているように思います。自然と融合していくことで御蔭様を感じていく幸せは何ものにもかえがたい無二のものだからです。

思い通りにいかないことは、同時にその実が充ちていくのを感じればいいのです。簡単便利にはいきませんが、そこに自分を転じる面白さがあり、そして感謝に恵まれ謙虚を楽しむ醍醐味もあるのです。

実をつけるまでには、その尊い自然の見守りが入っているのです。そして実は、その尊い見守りを次世代へと譲っていくための糧になるのです。

自然から教えていただくことばかりですが、安心と立命を味わっています。この体験もまた実になるのでしょう。その実を子どもたちの自然へ転じて譲っていきたいと思います。

信を立てるということ

人は自信を持っているかどうかで、信頼関係ができるものです。

その自信とは、自分の中に揺るがないものがあるということであろうと思います。自分の信じたものが確かであればあるほどに人は自他を信頼していくことができるからです。

しかしそれはその人の生き方にまで関係してきます。

その人がどのような人物か、どのような生き方をしているか、言い換えればどれだけその人が自らに克てる人であるか、その人の真実にまで迫って理解しているようにも思うのです。

そして同時にそれはその人がどのような使命を持っているか、その人がどれだけの価値があるのか、それを知るに至るのです。人は自分のことが一番わかっていないものです、どれだけの価値が自分にあり、どのような御役目をいただいているのかを知れないのです。

その価値を自分ではなかなか決められないものです。それに気づいてくれる人たちの存在がその人に自分の真の価値を与えるともいえます。そのような社會によって気づかされていくものが信であろうとも思います。

人には誰にせよ個性があります。これはそれだけその人にしかない独自のものがあるということの証明でもあります。そしてその個性が認められ、それが揺るがないほどに自分の存在が自分で認められれば自信となるように思います。

人は何かしようがしまいが、存在しているだけで役に立つものです。役に立たない人などはいないのです。役に立たないものを神様は創ったりしません、役に立たないと人間社会で言っているだけです。

しかし役に立てないと思い込めばすぐに不安で自信がなくなってくるものです。そういうものを理解していくには、一つ一つの役目をどれだけ立てていくか、自分が何の役に立ち、人を役立て、そして自分がどれだけの信頼関係を社會で築いていくことができるかが大切であるように思います。

人は独りでは生きてはいけないというのは、言い換えれば役に立ち合うことで生きていくのだという意味なのかもしれません。その関係性を学ぶのが保育でもあり、そして人生でもあろうと思います。

その現場に居て、何をすればいいのか、子どもたちにどのように自信をつけさせてあげられるか、その仕組みを考えることが目下の私の課題です。

ミマモリングもはじまったばかり、まだまだこの自信については真摯に深めていきたいと思います。

 

御守り~魂を守る~

人は誰しもがそれぞれの速度で自分の道を歩んでいきますが、その中で色々な人たちに出会っていきそれぞれに尊いご縁を結んでいきます。

その尊いご縁の集積の上に、今の自分があり、どのような人たちと出会ったか、どのような人たちに支えられてここまで来たかを時折実感できるのが同志との邂逅だと思います。

先に往く者も後から来るものも皆、それぞれの道の中で自分なりの体験をし、自分なりに正しいこと、素晴らしいこと、学んだことを伝承していくのです。

時代というのは、それぞれに自分の役割があるように思います。

そこには、その時代その時代を生きた人たちの生きざまとして生き方が譲られていくからです。子どもたちがこの後、どうしたいのだろうと思う時、自分の道を歩んだことそのものが必ず何かの役に立つと信じられるのです。

今までもずっとご縁に結ばれてここまで来た自分、そしてこれから往く自分を思う時、子どもたちが同じように自分の人生を生きることを自覚するのです。そうしてみると、自分がどれだけ自分の人生を遣り切ったかは、子どもたちの模範になるように思います。

自分の純粋な魂や信念を遣り切ることは大変ですが、その魂も信念も自分が守ってあげなければ誰かが守ろうともしません。しかし、それを守りたいと思う仲間が必ずご縁の中に存在しているのです。

大切なものは、仲間たちがずっと大切に心に持ってそれを他の仲間たちへと受け継いでいきます。宝というものは、この仲間たちが受け継いできた「信」であり、「義」であり、そして「魂」のことであろうと思います。

一人ではないと実感するとき、そこに脈々と連綿と続いて守られてきた魂の証を実感するから不思議です。自分の生き方の中に、その生き方を通じた宝が必ずあるという真実。それがご縁を楽しむ醍醐味かもしれません。

出会いを通じて、様々な宝があることに気づいてそれを次の方へと譲り渡していきたいと思います。日々を大切に、魂を御守り、自分の中に光り輝くその宝を守り続けていこうと思います。

永遠の教え

人は信じることを教えてくれた機会を忘れないように思います。

大切なことを忘れないでいたいとは誰しも思っているものです。しかし時間が経つにつれ日々の喧騒に流されるにつれ、大切なことを忘れてしまいそうになっていきます。

しかしそういう時に忘れたくないと思っている同士のご縁が引き合い、その共通体験を通して互いに大切にしたい初心を思い出すことができるのです。そうして体験した絆ができれば、それを互いに一生持ち合って信じてその後の人生の歩んでいくことができるように思います。

人と人が出会うことの素晴らしさというものは、このご縁の尊さによるものです。

私もかつて恩師に様々なことを学びました。

そしてそれは恩師との人生の邂逅であったようにも思えるのです。お互いにそれを学びたかった、そしてそれを求めていたということかもしれませんが一緒に掴んだ絆は綻びることなく存在し続けているように思うのです。

この年齢になって、恩師との邂逅をいただくと改めて何を指導してくださっていたのか、そしてなぜこのように人生に影響を与えていたのかを自覚しました。24年間、ずっと先生ならこんなときどうするか、先生ならどうしたかということをイメージして歩んできました。

それがここで繫がり、また伝えていただくことで思いが確かになり信が強くなるのです。私はこれまで基本を学んでいたのかもしれません、ようやく中身を味わうことができるようになってきたのかもしれません。こうやって学びを繰り返せることに心から感謝します。

最後に、その恩師からの教えの一つです。

「プレーをつくるのではない、人をつくるのだ」

恩師のこの言葉を心に刻み、もう一度学び直しを決心しこの先のご縁の歩みをさらに楽しんでいきたいと思います。

遣り切る

人は自分の遣りたいと思うことの本当の意味を理解するのにかなりの時間がかかるように思います。

それは、人生は遣っていく中で次第に近づいていくものだからであろうと思います。最初は目で見ているものに憧れます。その憧れからはじめてはみるもののそれは思っていたものと違かったのではないかと思うのです。

何でもそうですが、人生でやってみたいものがあったとしてその本当の味わいや意味を実感するのは遣り切った後なのだから全部時間差があるのです。

「陽のあたる教室」という映画があります。この中で主人公のホランドという先生が最初に音楽を志した時のことを話すシーンがあります。そこでは、「最初にそのレコードを買ってきたときは拒絶してしまった、しかし何度も何度も聴いているともうこれなしでは生きてはいけないほどになった」と語っていました。

またその音楽教師になり、後に退職する際には自分がバンドマンになりたかったのではなくそのレコードの音楽の人物のように最幸に充実した人生のハーモニーを奏でることを求めていたということに終盤に気づいていくのです。それを教えてくれるかのような教え子たちとの邂逅、また人生を総まとめとしたときの本質が生きざまのプロセスの中に滲み出しているのです。

そう思えば、人は最初の直観を信じて何度も何度も繰り返していく中で最初は拒絶と出会い、その拒絶とも向き合っているうちに自分の深層にある本質に出逢い、そして変化することができ、その時の有難い機会と幸せを享受されたなら夢を已められなくなるということになるのではないでしょうか。なぜなら最初の拒絶とは、自分の思い通りにならないときに発生するものであり、そんな自我欲をも乗り越えてでもやりたいことを優先するからその人は自分らしくいられるのです。

人生とはやってみなければ分かりませんが、しかし同時にやってみたって分からないものなのです。遣って見て、そしてもう一度、遣って観る、そんなことを繰り返し遣って常に省観していくと次第に自分の真実の志に出会い竟には全ての人生に感謝することができるように思います。

自分らしく生きるには、自分の都合ばかりを優先していたらそうなるわけではありません。自分らしいというのは、与えられた今をどれだけ真摯に信じるか、信じて遣り切りそれが必ず夢とつながっていると精進を怠らず精進を妥協せずに己の欲に克ち続けるかということであろうとも思います。

「遣り切る」というのは、信じることです。

人生を遣り切って、その後に楽しむことほど豊かなことはありません。感謝するほどに恩返しに燃えて挑戦していきたいと思います。

 

ご縁に包まれる

人は感謝や有難いという気持ちを忘れてしまうと頑固になっていくものです。

この頑固というのは、自分の考えに固執してしまい他人の言うことを聞けなくなることをいいます。頑固さというのは、どこから来るのかといえば自分にとって当然というように思うことを言います。

この当然という言葉は、自分はここまでしているのだからこうなるのは当然だというような傲慢さからくるものです。本来、当然というものはなく、今の自分に置かれている全ては当たり前のことではないことに気づくことが本来の意味の当然に気づくことになるのです。

それが単に自分の分け前はこれくらいあって当然というのは、その努力は感謝から来ているのではなく自分の都合で見返りを求めて行われてしまうことが多いのです。

本来、報恩や感謝というものは、こんな自分をここまで大切に育ててくださっているものは何か、こんなにいつも大切に善くしてくださっている存在は何かと、自分を自分たらしめている全ての見守りに有難いと実感している状態の時に行うものです。

こんなに頑張っているのにとか、こんなに尽くしているのにとか、自分が報われていないと思うことから頑固さが強くなっていくように思うのです。与えてくださっていることに気づかず、相手に求めては手に入らないことを嘆くよりも自分が今、あるのは何の御蔭か、全ての機会を活かさずば勿体ないと素直に自分を変えようとすることが柔軟性とも言えるものです。

柔軟性というのは、大切なもののためには自分の方を変えてしまおうとする姿勢のことです。姿勢が頑固で自分が正しいと周囲を変われと矢印を向けていても何も変わることはないのです。より周りを頑固な自分に合わさせるだけで、自分自身はいつまでもそのままで停滞し澱んでいくだけなのです。

まず頑固さの根がどこにあるのかを自覚しないといけません。そのためにはやはり素直に聴くことから始めていく必要があるように思います。もちろんただ何でも聞けば素直かというわけではなく、ご縁ある全ての人や言葉に感謝し、その意味を真摯に真心で受け賜らせていただきますという人生の体勢から学び直すことのように思います。

よく観てみたら、当たり前などはなく全て有難い奇跡の中に自分は生かされています。その有難いいのち、ご縁を勿体ないと心底実感するとき、より活かしていくのは自分ではないかという素直さが顕現してくるように私は思います。

どんなに気づかないような小さな虫でも雑草であっても、大切なお役目をもっています。祖の御役目をそれぞれが感謝しているからこそ、大切な使命を世界の中で役立てる歓びもまた知っているように思うのです。

人生の幸不幸は、自他の存在の当たり前ではないご縁と繫がりに気づくことにあるのです。

一日を内省しているとまだまだ聴こうとすれば聴ける自分がいます、この有難い学びを深めていける日々に感謝の念をいつも抱きつつ、自分の方の姿勢から常に正していきたいと思います。
いつもご縁を思う時、心が感謝に包まれます。
ご縁に包まれていることが幸せです、尊いご縁を有難うございます。

修養の心得~聴聞の姿勢~

先日、ブログで聴聞について書きましたがその実践は一生かかるものです。

人は聞いても聴こえず、聞けども聴かずという状態になっていくものです。いくら耳を澄ませてと自分が思っていても、その実践は素直の実践と同じほどに難しいことだからです。

人はなぜ聴聞できないかと言えば、そこに疑心があるからです。自分のことを信じられず、周囲の人のことを信じられないようになれば自ずから聴聞することはできません。そもそも自信というものは、「自ずから信」という意味であろうと私は定義していて、どれだけ全てのことを信じているか、そしてそのことに対して素直であるかということを言うように思っています。

つまりは、信じることができない状態では聴聞もまた難しいと思うのです。人は素直になってくると、他人の話を澄んだ心で聴くことができるようになるものです。素直でなくなってくると、聞かなくなるだけではなく聞こうともできなくなり自分だけの殻に閉じこもって疑心暗鬼に陥って常に矢印を自分以外へ向けてしまいます。

人は信じることができるかどうかが何よりも聴く姿勢を育てていくのです。

頑固というものも、自分の考えだけが正しいと思い込み、相手の話をちゃんと聴くことができず、相手ばかりに自分の意見を要求するようになっていることをいいます。理由は、不信や不安から傲慢とか不遜とに陥っている場合がほとんどでしょうがそういう様々な状況がまた聴聞の実践ができないことになっているように思います。

聴聞できないと孤独になるものです。人はご縁を感じたりつながりのなかに居る時にこそ感謝を忘れず幸福を味わい安心の境地に達しているものです。だからこそ自分の姿勢が常に素直であるか、そして謙虚であろうとしたか、そういう自分であろうと常に実践しようとすることが具体的な仕組みの一つ、「聴聞」というのです。

親鸞の教行信証にはこう書かれています。

衆生、仏願の生機本末を聞いて疑心あることなし」

これは意訳ですが、釈尊の本願に悟ればそこには信があるだけである。これは、根っこの心から人々を救いたいという願いこそに有難い教えが入っているということなのではないかと私には思えます。

そして親鸞はこう続きます。

「きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。また、きくといふは、信心をあらはす御のりなり」

これもまた意訳ですが聴くというのは、その釈尊の本願と同じ心でいることを聞くというのです。またその聴聞は自分の信じる姿勢を示す法そのものなのです。これは松下幸之助の素直の百段と同じ話であろうと思います。

どれだけ自分が素直に信じているか、自他を丸ごと信じて取り組んでいるかを内省するときと同じことがあっているのです。

この聴聞というのは、なかなかできるものではないのは自分が素直で謙虚でなければできないことだからです。天地の理法や自然の法則、その他、真心の道などもすべては自分の心に自ずから信じることができてはじめて触れることができるのでしょう。それは言い換えれば、当たり前などないのだということを自覚し感謝に目覚めることだろうと私には思えます。

自分は本当にまだまだ修行が必要だと痛感しますが、それもまた善いことなのだと信じて今日を昨日よりも有難く学び機会を大事に精進していきたいと思います。

もったいない~尊い体験~

人には毎日、様々な機会が用意されています。

それはそれだけの体験が用意されているとも言えるように思います。一人一人の人生があるのは、その人にしかないその人らしい人生を用意されているということがここから分かります。

人生というものは、その人のものでありその体験がその人の人生とも言えます。

学校というところでは、答えを先に教えてその答え通りになることが良いことであるかのようなことを勉強します。本来は、先に体験をしてその体験が何であったか、その体験から何を学んだかということを使って様々なことを共に身に着けていくための学習をするものです。

本来の学びを、人生と定義するのか、勉強と定義するのかが異なっているのです。

もしも勉強をするために勉強をするのなら、結果ばかりを気にして良い結果がでるためだけに先に知識を得てはその知識を持っているかどうか使っているかどうかが論点になってしまいます。

そうなると、ちゃんとやったかどうか、ちゃんとやれたかどうかが判断の基準になります。仕事でも何でも、やったら終わったとその後の改善をせずそこで満足して中途半端になってしまうのはこの結果さえ合っていればいいという価値基準が刷り込まれているからかもしれません。

しかし人生ではどうでしょうか。

人生では、ちゃんとやったかどうか、ちゃんとやれたかどうかではなく、その体験から気づいたものは何か、その体験から学んだ経験は何だったのかを実感することが基準になるのです。その上で、如何により善い体験まで昇華していくか、その体験をより意味があるものに発展させていくかに価値基準が変わるのです。

そう考えてみたら、結果ばかりに囚われるよりも体験してみたいという好奇心やチャレンジ精神の方がより人生を楽しくしていけるように思います。なぜなら、せっかく一度しかない人生、一度しかない今、一度しかないこの機会、体験しないと「もったいない」からです。

遣る前にある程度予想して、きっとこうだろうとか、こうなるためにどうしようかとか、事前に調べすぎてそこそこの無難な結果に満足するよりも、尊い体験をさせてもらうのだからその一つ一つを根こそぎ学ぼう、この機会を活かそう、つまりは「もったいない人生を味わおう」と開き直った方が真に学べるように思います。

体験から学んだことは、本当のことです。

その体験から学んだからこそ、学びが楽しくなり、師友とのご縁にも、また自分の人生にも感謝できるように思うのです。すべての時間、すべての人生を、全身全霊でいるときがもっともいのちも輝き幸せを実感できるように思います。

もったいないからこそ、さらなる日々の体験を楽しんで生きたいと思います。