真心の稽古

論語に三省という言葉があります。

これは師が大切に座右にする言葉で知ったのがはじめでしたが、これを言ったのは曾子という孔子の弟子の一人です。曾子は大学を記した人物で、孔子の仁という思想の意味を「忠恕のみ」と説き、思いやりや真心を何よりも優先された人です。

ここにはこうあります。

「曽子曰く、吾(われ)吾が身を三省(さんせい)す。人の為に謀(はか)りて忠(ちゅう)ならざるか、朋友(ほうゆう)と交わりて信(しん)ならざるか、習わざるを伝うるか。」

これは私の意訳ですが、(曾先生が仰った、私はいつも自らの真心にふり返るようにしています。今日も人に真心で尽くしていたか、共に歩む友たちに接して真心から外れていなかったか、そして本当の真心を伝えていたか。」と。

いろいろな人の解釈もあろうと思いますが、私にはこれは常に自分が真心を忘れた行動をしていなかったという内省の自戒であろうとも思うのです。

つい私は立場の違いや、役目の違いで、相手に合わせて自分の接し方を変えてしまっているようです。これは優先しているものが、単に結果や立場に対しての自分というものになっているのです。

仕事で言えば、上下関係や利害関係、作業内容などで接し方を変えてしまうのです。そうなってしまうと、自分が何よりも大切にしていたものよりも形式ばかりを追求することになり本来の自分の使命を忘れてしまうのです。

相手がだれであろうが、その時間がどうであろうが、どんなことを相談されていようとも、自分が真心だったかどうかは常に別のことなのです。

本来は自分の真心や思いやりを優先していけば、真実を語るよりもそこに真実そのものがあり、本質を語るよりもそこに本心そのものがあります。人は共に協力しあってこそ、人の間で為したいことが顕われ、為ることを支援されるように思います。

自然の循環の中で如何に真心を尽くしていくかが私たちの日々の座右にしておくことなのかもしれません。そういうものの中にこそ真善美の調和があるように思います。

私には、聖徳太子の和を以って尊しとせよという言葉も、この論語の三省も、仏陀の慈悲も、キリストの愛にいたるまで、すべては異なる言い方をしたのみで、それはかんながらの道での直毘霊と同じことを言っているように感じます。

昨日は最後の最後にまたそういう気持ちをなくしてしまいました。

余裕も豊かさもそして真実も、自らの真心の実践の最中で味わい感じるものです。今日も仕切り直しし、真心を座右に、今日も学び直しができることに感謝し、人生道場で研鑽を忘れず、日々の真心の稽古を積んでいきたいと思います。