真似とは何か

先日ある人との面談の中で、自分が形を真似してしまったのがよくなかったという話を聞きました。それは仕事の仕方を真似したものの、説明になってしまい自分の意見が入っていなかったということに気づいたという話でした。

常に自分の意見を持つというのは、自分の考えを話すということでそれは心を開いて相手と接するということにつながっています。人は誰かと話をして心を通わすにはオープンで在ることが必用でそれは自らが進んで「自分はこう考えます、そしてあなたはどう考えますか?」という関心を主体的に問いつづけ育んで常にご縁に対して素直にいることのように私は思います。

それはそれで大切なことを気づいた善い時間になりました。

ただここで真似というものの本質について私なりの意見を書いてみます。

そもそも真似というのは、表面上のものを真似することを真似とは言いません。真似とは生き方の真似のことを言うのです。

例えば、尊敬する先人や師、もしくは身近に仕事を習う人たちに着いたとします。すると、その人のコピーをして同じ言葉、同じことをしてみても決して同じことにならないことはやって観ればすぐに分かります。これはなぜかということです。

私には師がいて、勝手に師にしているだけで師も師とは思ってもいないかもしれませんが沢山の師がいます。その師はすべて人生の師であり、生き方の御師匠さんです。その人の姿形や仕草を真似しているのかといえばそうではなく、その人の考え方、その人の姿勢、その人の実践、その人の人間性そのものを尊敬し真似しているのです。

真似というものは、決して簡単にコピーできるようなものではないのです。その勘違いがあるから真似ができないということになるのです。

真似というものは、長い時間をかけてどのようにしたらその人のようになるのか、なぜあの人はこのような話ができるのか、どうして同じことをしてもこんなに差があるのかと、その人のことが真に分からなければ似るということもないのです。

つまりは孟子の「似て非なり」なのです。

似て非なりとは、ちょっと見た感じでは似ているけれど実際は全く違っているという意味で本物と偽物のことを説いています。これはそのものの本質を観るときに使う言葉です。

本物になるということが本来の真似をするということです。だからこそ仕事を学ぶということは、先輩の生き方を真似るということです。学ぶ順番を間違うと本末転倒になるかもしれません。

先輩がどのようにして今の実力を手にしたのか、それはコピーでは得られず自らの脚下の事物をもしあの人ならどうするかと大事にし、その自らの心に師を描きつつ真摯に真似てみてはじめて非が分かり、その非を恥じてまた心して生き方の手ほどきを聴くことができるのです。

昔は師弟といったのかもしれません。しかしこの師弟とは、何かを通して共に生き方や生きざまを友にした「非で似ているもの」かもしれません。

今の時代は、安易に何でも真似ができると勘違してしまう人が増えているように思います。これも刷り込みで答えや結果さえ似ていれば真似できたと勘違いしてしまうからかもしれません。

真似は簡単ではないのです。

本来の結果とは、そのプロセス、つまりは生きざまのことでありその生きざまが同質であるかどうかを問われているのです。尊敬する人と同じように生きるには、それなりに真剣に生き方や生きざまをその人と同事にしていかなければ得られません。

あの人と自分は違うからというような言い訳が自分自身の成長を阻害しているように思います。あの人と自分も同じ人間、あの人と自分も同じ学友と思えれば、見せかけのものよりも中身で近づきたいと思うようになるのでしょう。

真似とは難しいものなのです。

私にもたくさんの指導者がいますが、ちょっと形が似たくらいで分かった気にならず、似て非なる真実を常に内省し、真摯に真似し真心で精進していきたいと思います。