円満両全~ご縁の真理~

人間は教えているようで教えられていて、助けているようで助けられているものです。

これはとても不思議な真理です。

一見、自分が相手のためにと動いているのですが、その実、深く内省してみたら自分のために動いていることになっているのは過ぎた後にじっくりとふり返ってみたら次第に理解できるものだと思います。例えば、ある人に大切なことを伝えていたら同時にそれは自分に伝えられたものではないかと鏡のように自分に返ってくるような体験をした人は多いのではないかと思います。

つまりは、自他というものはお互いに結び関係しあっているものだからこそその結ばれている関係において相手の存在を自分だとし、自分が相手だと深く洞察していさえいれば何かの教科書がなくても自ずから真理が明らかになっていくのです。

昨日の一日をふり返ってみても、自らが動き相手の立場を思いやり動いてみるとその時は自分が相手に何かを教え導くことをしていたとしても、実際はそうさせていただいたのは自分の方ではないかと感謝に帰るのです。

これらの気づきというものは、御蔭様といった日本の言霊にあるように自分がやってあげたのではなく、させていただけたという考え方のことです。また相手の御蔭、何か偉大な見守りの恩影を投影しているという意味になってもいるのです。

つまり人は相手がいることではじめて自分が活かされるということです。もしも自分にとって都合の善い世界に住まえたとしても、もしそれがたった一人であったなら大変な苦しみを味わうものです。

人は相手がいるから一生涯を学べ、人は相手の御蔭で本当の自分、その人生を知覚し味わっていくことができるのです。

これらを一方的に、教える側と教えられる側で分かれてしまうことほど虚しいものはありません。人間というものは、常にこの今、この瞬間にも何かの教えが入っているはずと繰り返し内省し、その内省して気づいたものに感謝し、御恩返しをしていくことではじめて尊い縁を活かしていけるように思います。

やってあげているようでやってもらっているのは自分、見守っているようで見守られているのは自分、どちらかだけではなくて、常に円満両全であるのがこの世の人と人との間のつながりの真理であろうと思います。

それを気づかせなくなるのも、教えから遠ざかるのも自分だけの自分といった自我欲を優先してしまうからでしょう。相手を信じる真心に自分を信じる思いやりで接していくことや、もしもこの人が自分だったならと親愛の心で接するならばそこにだけ本物の教えがあることを知り、丸ごと感激感謝できるように思います。

人は一人では学べず、必ず相手があるから学べるのです。それが学問の道理、学び合いということの意味でしょう。だからこそ人との出会いがあることが何よりも有難いのです。

一日一日は色々な人たちと関わり、沢山のお話をしていくものですがその一つ一つが自分に教えられたものを見落としてはいないかとしっかりふり返っていきたいと思います。