体得会得の努力

人が大切なことを覚えるのには、自分で体得会得するのが一番です。

しかしそれを実際に遣ろうとしない人が増えてきているようにも思います。なぜ体得するのが善いのかと言えば、それは忘れないからです。他人から教えられたことは、いくらメモに書いてもノートに残しても覚えられるようなものではありません。

それを暗記としてはあれかと思い出しはしても、実際の現場で役に立つための智慧にはなりません。何度も何度も自分なりに挑戦してみては、教えてくださった師や先輩、または上司のように自分もできてはじめてそれが自分のものになったとも言えるのです。

宮大工棟梁西岡常一さんの「口伝の重み」(日本経済新聞社)にその学び方の姿勢について色々と書かれていてとても共感できます。

そこにはこのような主旨のことが書かれていました。職人の世界では、手取り足取りの指導などはしないものです。その教えには、「体で覚える。優れた仕事を見て、それを盗む」これを基本だとしています。そして「口より先に手」と、まずは自らの手で掴みとれという心構えを沁みこませます。理屈であれこれというのはうまくいかない。それぞれが、自分で体に仕事をしみこませるしかない。何かを伝えていくのも、そうしたやり方になる。それだけに「教わる方も、教える方も必死。」だったとのことです。

それだけカタチにしていくということは、口先や言葉ではできないということを自らの体験から知覚しているのでしょう。口伝というものの本質は、言葉ではなく心を汲みとれということでしょう。そして心組みをして心構えこころざし、心得、心の糧、心の全てを受け継ぐということなのかもしれません。

表面上の仕事をやったとしてもそれは本来の志事ではありません。

自分で考えて考えて考え抜いて、自分で遣って遣り抜いて遣り切ってこそ、はじめて教えた側も教える側も「必死」「本気」でやったということになるのでしょう。

今はそのような努力を避けて、できそうなところだけを選んでいる人たちがたくさんいます。心を通じ合わせなくて学べるものなど本来は一切なく、小手先の技術を学のではなく、本物の技術を学んでこそ伝承ができるように思います。

技術の基本とは、「心を入れる」ことに他なりません。そして基本の技術を学ぶために、必ず通過すべきことは「心を入れ変える」ことからはじまります。

自分の心が入っていなかったことを恥じて、もう一度心を入れかえて基本中の基本からやり直そうとする覚悟、そしてその基本から逃げずに何年もかけてコツコツと学び直す忍耐、師からの教えを頭で聞くのではなく心で聴く、その上で少しでも近づこうと努力精進を怠らないことこそが根本になっていくようにも思うのです。

当たり前のことを忘れてしまうのは、口でばかり教え、耳でばかり聞いて、頭で分かったことばかりを繰り返しているだけで何もしていないからです。口は励まし導くために使い、相手のことを真摯に聴いて、心で共感していくことの方が育成していくには価値があるように思います。

口伝が家訓のことであり、その家訓を口伝するためには先師の達するために行った努力の全てを心して行うという意味です。伝える側も承る側もまさに必死の正対があってこそ、はじめて口伝は成り立つように思います。

基本とは何か、技術とは何か、まだまだ深めてみたいと思います。