古来からの学び方

一般的には人は最初の仕事を学ぶとき、知識から入る人と体から入る人がいます。器用な人は知識から入りますが不器用な人は体から入るようにも思います。しかし本来は両方必要なことで知識も体もいるように思います。

考動ができる人というのは、心に浮かんだことをすぐに形にしていくために頭と同時に手足も動いているものです。学ぶというのは決して頭だけではできることではなく、心と体が一体になったときにはじめて沁み込んでいくように思います。

自分に沁みこませていくような学び方、慣れ親しんでいくような学び方をしてきた人が少ないのは知識編重型の教育を受けてきたからかもしれません。もしくはやらされてきたから知識を掘り下げて自分のものにし智慧にまで昇華するということをやろうとしなかったのかもしれません。

ヤル気を育てるということがどれだけ大切な事か、この歳になってみてそれをはっきりと自覚するようになってきました。自らが常にヤル気をどれだけ育て続けてきたか、その歴史の重み、体験の質量が心と体にはもっとも大切なことなのでしょう。何をするにも努力から入れないのでは何事も為し遂げることはないのです。

人を真に導くということは、その人のヤル気をどう見守っていくのかということかもしれません。宮大工の棟梁西岡常一さんの「口伝の重み」(日本経済新聞社)でこういう話が紹介されていました。

『校長は、上武豊太郎といった。私たちが直接話を聞くのは、修身の時間である。こんな話をされた。「君たちは、農業経済学というものを習うてるやろ。そこには「最小の労力をもって、最大の結果を得る」それが原則や、と書いてある。しかし・・・」と言い、「我々、日本の”農人”はそうであってはならない。自分ひとりの働きで、何人の人を養えるか。これが根本や」農の基本は金儲けや効率ではないというのだ。そのあと「しかし」と続け、「試験のときは、こういうことを書くな。零点になるから。」なるほど、農人とはそうあるべきだと、感じ入ったものである。__背骨を入れられた。と今でも思っている。』

戦後の教育では、また巷のニュースでも経済の原理ばかりが優先され如何に効率よくラクをして成果を出すかばかりを詰め込まれると本来の大切なことが忘れさられていることが多いように思います。

大量生産大量消費の中で、如何に労働をするのかということを教えられ、本来の労働の価値、作業ではなく仕事という価値を学ばないで大人になってしまうと経済の歯車にだけなろうとしてしまうのかもしれません。

農一つを学ぶにも、本で書いていることはごくわずかで実際は農地に出て観ては上手くいかないことばかりと正対します。土や草や虫、そして気候を学ぶのは決して本ではできず試行錯誤しながら、大袈裟に言えば七転八倒しながら心して現場で学ぶしかないのです。それが知識を入れて知識を削除したということでしょう、言い換えれば「モノになっていく」ということです。

そうして自分が繰り返し努力することで根気もまた育っていくのです。

これらのヤル気というものは、本来のあり方の方を大切にし続けるということでしょう。そして学び方も、ヤル気を育て続けるために知識を入れてはそれを削除するために体験するという学び方、そして体験したことを掘り下げてそれを本物の知識にしていくという学び方になっていくはずです。

まずはその人のヤル気を育てていたのがかつての教育(古来からの学び方)だったのかもしれません。

人は自ら学ぶ力があり、自らがヤル気を出して取り組む時、自然に知識も智慧も体得もできるように思います。素の自分を如何に直すか、その素の中に何を据えているかが、長い人生においてとても大切なことのように思います。

経済効率を優先すれば時間の使い方もまた経済効率を優先になるのでしょう。非経済的であったとしても、そのヤル気が育つのならばその人に合わせて見守っていってあげることが思いやりのように思えてなりません。初歩の基本を間違えてしまったら、その後は全部間違いになる怖さがあるように思います。初歩の基本は的を外してはならないのです。

本来の子どもたちが望んでいること、発達に合わせてどのように学び合いの環境を発展させていくのか、そこには互いのヤル気を尊重することからなのかもしれません。戦後に操作された今の教え方と学び方を古道に照らして修正していきたいと思います。

一期一会を大切に、これからも何事も同時であることにこだわっていきたいと思います。