縁とは心~自他に正直~

心の力というものがあります。

これは信じる力というものかもしれませんが、不安を転じて安心に換えたり、ピンチをチャンスに換えたり、有難を幸福に換えたりする力であろうと思います。

心というのは、感情に左右されずにいつも善いことであると信じているものであろうと思います。心が強い人というのは、困難があっても何か不安があってもきっと善いことであると信じることができるということです。

感情というものは、生存本能から自分の生存にとってマイナスなことを探し当ててくるものです。なのでネガティブなものを見つけては危機を察知し、そこから危険を回避するという力に転換していきます。

しかしその分、感情で考えるということはネガティブを呼び込むことになりつい良いか悪いか、正しいか間違っているかなど、両極に偏りバランスを崩してしまいます。本来は、心の強さが必用で心は丸ごと信じるということを行うことで全てを包みバランスを維持することができるのです。心が丸ごと信じられるというのは、自分が活かされているという全体の働きを自覚することであり、つながりで観る、ご縁を大切にするということで顕現するのです。

つまり感情と心でバランスを維持するというのが本質であろうと思います。

これらのバランスの維持とは、頭で考えてできるものではありません。なので常に心を優先してその後に考えるということ、言い換えれば実践を先にしてそのあと内省するという順序を大切にすることで維持できるのではないかと私は気づきました。

心は全体を見通し、感情は状況を見通します。ですから、バランスというものは自然のままに自分を活かす、正直でいるということを示しているというのが定義であろうと思います。

バランスが悪いというのは、正直ではなくなっているということ、またそれを忘れてしまっているということです。今の世の中は、頭で考えれば、否、目で見える世界を追いやすいように思います。目で見えない心の世界を学び、つながりやご縁を観る力を養っていく必要があるようにも思います。

内省を続けることは、自分の中にある直毘を養い、その真心を研鑽していく実践方法です。常に日々に流されないというのは、心を遣ってということであり、それはつながりを心を観続けているという意味、つまりはご縁が観えていますか?ということであろうと私は思います。

ご縁を大切に、心を強く、自他に正直に生きていきたいと思います。

いのちの光

今年も鞍馬寺にて新たなことに気づくことができました。実践をしているということで観えてくる世界があること、実践すれば顕われる世界があること、世界とは自分の内在する内省により開花していくのを感じると師が学んだことを確認することで安心の境地を得られるように思います。

私たちが当たり前と思っているものの中にこそ本質はあります。それは土であり光であり、風であり水であり、そのものその中にこそいのちが宿っています。

こういうものを一つ気づき、そして一つ悟り、一つに生きていくことで見えなかった世界がパッと開けていくのかもしれません。大人になるとそういう世界よりも自分の都合で見ている世界の方が正しいように転換されてしまいます。

しかし子どものような好奇心を思い出し、もう一度世界を観直してみると自然の中に居る自分を実感し、全体の働きを感じればいのちのままに活きることの歓び、正直であることの素晴らしさに感動するのです。

私たちは大地の上で、共存共栄しながら楽しく暮らしていますが時として有難い存在である太陽のことや月のことを忘れてしまうのかもしれません。そういう時に、決して忘れないようにと初心を維持している法がこの世に残っていることに出会えることほど有難いことはありません。

夜明け前の太陽も、夕暮れの月も深夜の星々も、みんな明るく私たちの道を照らしています。

そういう当たり前の中に、私たちが本来、観本とする根本の生き方があるように感じます。
魂を磨いていく時代にいて、子どもたちへの”願い”を共有できることに心から感謝しています。

最後に、鞍馬寺で新たに出会った心が香る美しい言霊をご紹介します。

「天を覆う雲は厚くとも、
太陽は常に大空に在る。
風が来て雲を払えば、
黄金の光が燦然(さんぜん)と輝く。
人の心に吹きすさぶ八風を、
苦悩の雲を吹き払う風として、
真実を観る智慧の光を迎えよう。

智慧の光が輝くとき、宇宙生命に生かされている万象を観る。
あなたも私も、花も鳥も、みな共に生かされているこの世界。
万象が織りなすいのちの相(すがた)、
宇宙に懸かる金色のいのちの網羅、
遠い昔から受け継いで来たいのちの絆、
私もその中の一つのいのち、
たがいに手を繋ぎ響き合ういのち、
あなたも私も、樹も水も、みな共に厳然と生かされている。

慈愛の温もりに抱かれ、智慧の光に照らされて、
豊かな活力に満たされて、
今ここに生かされていることの嬉しさと有り難さ、
この歓びと感謝の輪を広げよう。
あなたも私も、あの人もこの人も、たがいに光り合い照らし合う、
明るい未来を信じ希い(ねがい)ながら、
一日一日を宝石のように大切に生きよう。」

日々を大切にそして豊かに、いのちの光のように輝いて遣り切っていこうと思います。

有難うございました。

 

正直評価~精活改善~

正直というものを考える時、自分に正直かどうかという基準があります。

今、使われている正直というのは外部からその人へ正直であるかといった他から自へと向けた正しいかどうかという基準で動いているように思います。しかし、そこには何らかの他から操作主義が入り込んでいます。そういう正直さというのは、他人から言われる素直さと同じようにそれは本質的には正直でもなければ素直でもないのです。

本来の正直さや素直さというのものは、自から自へが本来の姿であり、自分自身の心に嘘偽りがないか、自分自身が決めたことに対してどれだけ本気であるかどうかのときに使われるものです。そこには世間一般や大衆集団のモノサシの中の平均であることを求めるのではなく、本来の人生の目的に対してどれだけ正直に実践しているか、素直に学んでいるかということになるはずなのです。

他人の目を気にし、自分自身を偽るようになっている状態で正直というものはわかるはずもないように思います。自分を大切にするということの本意はそこにあるのです。

思い返せばこれは学校教育などでは分かりやすいのですが、学校では学校の基準でその人を推し量り、何らかの評価を存在させます。頭が良く優等生であることがいいという評価があれば、そうではない人たちはそこに向かって自分を確認していくということになるのです。そこでは学校の方針、ほとんどが受験による知識偏重型の評価が用いられています。

しかし実際はどうなっているかといえば、自分を生きていくには人生をより善く生きぬいていかなければならず、そこには自分の中で決めた自分らしい評価、つまりは自分の人生の目的をどうするかというものと正面から向き合わなければなりません。

それは言い換えれば、自分がどう生きたいのか、どう生きるのか、そういうものを自らが持ち、その大義を中心にして自らで判断していかなければならないのです。そう考えてみると、正直であるということは自分に正直であるということで誰かに対して正直であるという意味ではないのです。

この自分に正直であるというのは、その正直な自分のままに他に対しても正直でいるということになります。だからこそ正直な人は他に正直を伝えることができますし、他の正直に対して自分を正直にしていることもできるようになっています。

人生というものを共に分かち合い、自分の正義を貫く人たちが同じ土俵で語り合えるようになる幸せもまた得られるようになります。人が人として共に生きていくことの素晴らしさ、そしていのちといのちの邂逅、真心の通じ愛もまたこの自他に正直であることで実現するのです。

人生の目的というものに向き合い、自分が何のために生きるのか、どう生きるのか、そういうものと真摯に向き合い実践していく中で、日々の正義が積み重なりそこではじめて正直評価を維持していけるように思います。

子どもの正直な姿は、その子がやりたいことを実現しているときに顕現しています。そしてそれを実現するのを見守っているとき、こちらにも正直さがわかる自分があるのです。

自他に正直というのは、周りの目を気にして周りの評価に合わせようとして、本来の人生の目的を忘れずに自分を誤魔化さないということです。

そして正義には思いやりがつきものですから、正直さを大事にすることの難しさを理解することで自他をよく思いやり、真心をもって自他に尽力することが正直の定義であろうと思います。

今は周りをみたら正直者がバカを見るなどと諦めている若い人が多いそうですが、それは自分らしさが肯定できず周りからもそのように扱われてきて自他を誤魔化しているからそう見えるのでしょう。

そこを勇気をだして先人たちや実践者から、自分らしさを学び自分を変えていく努力をしてみることでたった一人、たった一度の自分の人生の価値に気づけるように思います。

私が日本人らしさに正直を書いたのは、日本人の祖神たちの足跡をには、その正直に生きた証がたくさん残っているからです

自他一体も正直も、すべてそこには一生懸命に真摯に自分を活かし、同時に他人を活かしたという互いに人生を活かし切ったその人らしさの証がのこっています。どれだけ今に精を出して全てを活かそう、自分を活かし切ろう、すべてを善いものへと転じていこうとする活動の心命魂を実感するのです。

祖先たちの求めたところを求めて精活改善を実践し、着実に歩みを進めていきたいと思います。

日本人らしさ

先日、日本人らしさについて考える機会がありました。

私たちは先祖代々からこの日本の風土に合った人格を形成してきました。瑞穂の国と言われるように、瑞々しい感性を持った人たちが切り開いてきた風土感が存在しています。

日本人らしさというのは、そういった風土の中で連綿と受け継がれた日本人であることを生きることをいうように思います。

例えばそれは、有難い、勿体ない、御蔭様、おてんとう様、見守りといった生き方を貫いてきて今があることを自覚します。

私たちはどう生きるかと考える前に、どう生きてきたか、何を理念にして生き残ってきたかを考える事のように思います。尊敬の念を抱き、何を自分が受け継いでいるかを感じ取ってみると自らの時代の責任が何かということに辿りつきます。

先祖代々が、それぞれの時代で日本人として生きてきたように、私たちも今の日本人の責任を果たしていくのは今の日本人として日本人らしく生きることに他なりません。

それはいくつかピックアップしてみると、謙虚さ、素直さ、清々しさ、純粋さ、楽観さ、勤勉さ、正義感の強さ、子どもっぽさ、そして道徳、その全ては日本人の徳性ではないかとも思います。

これは神話からも歴史からも顧みることができ、日本人が何を目指していきてきたか、どのような価値観で理想を求めたのかが分かります。

すべての項目に共通しているのは「正直」というものを本義にして生きる生き方です。
ここに元来の日本人の目指した姿、日本人らしいことの誇りがあるように私は思うのです。

道を歩み自然と調和し一体になって活きることの中に正直という美徳が顕現します。
この風土こそが私たち日本人らしさを産んだのでしょう。

かんながらの道を静かに深めつつ、祖霊たちの御恩に感謝し、日本人に相応しい生き方を求めて日々を実践していきたいと思います。

ピンチはチャンス

先日、ピンチはチャンスという言葉を改めて考えてみました。

この言葉はよく心に残る言葉として、あらゆるところで用いられピンチと思っているものをチャンスに換えてチャレンジしていくというように使われているように思います。

ネガティブな感情をポジティブに変換しようとするときや、追い詰められた状態から脱しようとするとき、実際は善いことになっているのだと考える時に用いられるように思います。

私はよく禍転じて福となすという言い方の方が好きで、よく「転じる」ということを用います。この転じるという言葉は何かというと、他のものに置き換えるということになるように思います。

例えば、ピンチというのは現状のことで発生してきます。自分の思い通りにいかないことや、大きな壁にぶち当たって動けない状況に陥っています。その時、八方塞になりピンチだと思ってしまいます。つまりはピンチとは、今までの自分では乗り越えられないような人生の障壁に出会ったということです。

こうして自分の方を変化させていくときはいつもピンチに出遭います、相手も状況も変えられずどうしようもない状態に気づいてしまい現実と向き合っていくのです。それは感情的にも精神的にも大変なことで、できない、乗り越えられない、自分には無理だという感覚が迫って来るかのようになります。

そんな時、このピンチの御蔭で自分自身と向き合えるのではないか、ひょっとしたら新しい自分に出会えるのではないか、今まで知らなかったことを知る機会になるのではないかと、その障壁を前に自分の人生と向き合うチャンスにするということです。

つまりはピンチがチャンスなのは、ピンチは今までの自分の人生や生き方、生きざまなどと向き合うチャンスだということであろうと思います。自分に正直に生きていくのが人生の目的だとしたときに、どれだけのピンチに出会ったかというのが運であり縁であり何よりも大切なことであろうと思います。

そういう時に正直に壁にぶち当たり、正直に向き合い、正直に努力する。そうすることで、丸ごと福に転じることができるように思うのです。これは言うは易しで実行は大変困難ですが、最期まで決して諦めないで正面から人生に向き合っていればそれが本気を呼び覚まし、真剣勝負の機会を呼び込み、失敗を母にして自然に発達していくように思います。

子どもが主体的に自由に無限の可能性を発揮し成長するのも思い通りいかないことを乗り越えていく中で自立していくものです。

つまりは、

「ピンチとは、日々に自分の一度きりの尊い人生に真剣に向き合う最幸のチャンスです。」

葛藤の中で、何かのせいにしたり怒っても仕方ありません。真摯に向き合うことばかりですがあの幼い子どもから生き方を学び、そのままの大人のモデルになるようにどんなものでも丸ごと活かし感謝で前進していこうと思います。

真面目の罠

刷り込みの一つに真面目さというものがあります。

どの職場であっても真面目というのは美徳とされているものです。それはサボらないという意味で使われています。特に、保育の現場ではほとんどすべての方々が真摯に子どもたちのためにと努力されていて不真面目である人を見かける方が少ないように思います。

しかしそこに一つの刷り込みの罠があることに気づきます。

それは一見すると真面目なのはいいことなのですが、真面目過ぎるのではないかと感じることが多くあります。それはサボらなければいいと勘違いし、努力する方向が間違っているのではないかと感じるときです。

例えば業務を行うことはきちんとできているのですが、大切な本質や目標に対してはどうかといえばそれはどこかに御座なりになっていてもそのままでも真面目にやろうとしているのです。

この時の真面目というのは、遣ることは真剣に遣っているのだから真面目という意味です。

しかし本来の真面目さというものは、目標や初心、理念を達成するために本気であるという意味が本質であるように思います。そのために日ごろから目標を達成するための努力を怠らないということです。

またそこには主体か受身かというモノサシも入っているのかもしれませんが自分自らで達しようとするときの真面目さと、周りの評価を気にしやらされているときの真面目さとがあり、その真面目という言葉でもその目標設定次第でその定義が異なるように思います。これは誰かに与えられた目標に真面目か、自分から決めた目標に真面目かという意味です。前者は自分の人生に不真面目になってしまうこともあるのです。

この真面目という言葉の中の、面目という意味は、1 世間や周囲に対する体面・立場・名誉。また、世間からの評価。2 物事のありさま。(goo辞書)にはあります。しかしここに真が入ることで、本気や真剣という意味になるのです。

真剣に取り組むこととは目的に対して本気になるということであり、真の真面目さということは真剣勝負をするということです。単にサボらないように必死にやるのは実は真面目過ぎるのであり、それは不真面目になることもあるのです。

いつも真面目に行うというのは、他人の評価を気にすることではなく大切な目標や目的を達成するまで徹底的に取り組むということであろうと私は思います。

私はよく不真面目のように見られることが多いのですが、目標を達成するためのしつこさや諦めなさはシブトイと言われます。寝ても覚めても一つのことばかり考えますし、何が何でも解決することだけしか興味がありません。一見、寄り道ばかりして遊んでいるように思われるかもしれませんがそれだけ真理を探究し、他人事を自分事にし、真面目になっているように思います。

それは単に真剣にやることが問題ではなく、「必ず理想を実現するのだ」という真面目な心が働いているのかもしれません。

真面目にやっているのだからという自分への甘えが実は最大の不真面目になってしまうのかもしれません。この落とし穴に落ちればまた同じことを単に繰り返しますからもったいないように思います。ちゃんと仕事しているのだからという理由で毎日残業しても、大切な理念や目標がそれで果たして達成するのかと本質から考えてみるのも一つの方法かもしれません。

真面目不真面目という両極で考えるのではなく、「真剣かどうか本気かどうか」というモノサシで取り組んでいくことを大切にしていきたいと思います。

遊び心とは、本気であるから産まれるものです。本質を維持するために敢えて型破りも辞さないのです。周りの評価を恐れず、本質を達成することに勇敢に真摯に真面目に実践していこうと思います。

相互主体

先日、師のインスピレーションの赤ちゃん同士の関わりのお話から相互主体についてずっと考えてきてハッとすることがありました。

人が育つということを一生懸命に見守り、寄り添い、信じる実践をしていると、その人が努力をし本番で活躍したり、その人の人生が光輝き変化する体験をするのを実感したりします。

私の場合は、子どもの朝練でも新しい仕事でファシリテーションするクルーの姿に感動し、本人が自信を持って遣り切る様子に安堵し感激します。その時、同時にいつも感謝の念が込み上げ自信を持たせてもらったのは私の方だと嬉しく幸せな気持ちになるのです。

こちらがやっていると思っているときは、文字通り必死になって自分も学び、自分も真摯に取り組み、どうやったらいいのだろうかと試行錯誤しつつ繰り返し繰り返し実践を積み上げていきます。

努力をしているうちにあるとき、感動するような出来事に出逢います。その人ができるようになったり、強くなったり、信じられるようになったり、新しいその人の発見に出会うのです。すると、同時に新しい自分自身を発見します。つまり、いつも同時に相手の歓びが自分のものになり、自分の歓びもまた相手のものになるのです。

相互に一生懸命に努力したことで、努力した成果を共に味わうという貴重な体験をさせていただくことができるのです。

そしてそういうときに、自他一体の境地を味わうように思えます。自分が主体だったものが、相手の主体によって引き出されていく感覚。まるで自分が相手の得たものを同時に自分も得たのだという有難い感覚、そういうものを体験するのです。

相手がいる御蔭で自分があり、自分があるから相手がありますが、自分が相手と同じくらい努力をしたり、真摯に向き合ったり、実践することが、相手と同時に成長していくことかもしれません。

錆びない関係や、御互いに成長するというのは、「一緒に」という強い絆があるからかもしれません。そしてそれはどちらかだけが引っ張るのではなく、相互主体、相互扶助の関係ができてこそなのでしょう。

御互いに諦めないで努力する価値というのは、御互いが自分の丸ごとで真摯に努力することなのでしょう。

そこに絆も出会いもご縁もあるとしたら、懸命に生きることが懸命に生きる人の幸せになるということなのでしょう。相互主体であるからこそ、自分がいつも手を抜かずに精進していくことで新しい相手と出会っていく歓びを感じていきたいと思います。

自信を戴いているのはいつも私の方です。

努力してくださって本当に有難うございます。

成長とは何か~真の智慧~

先日、ある園の理念の確認の中で強く逞しくあるということについて教えていただきました。

強く逞しくという意味を教えて下さった方は、戦中戦後の厳しい環境の中で、実に多くの苦労をなさって今に至ります。そしてこの強く逞しくというのは自立を顕していますが同時に苦労というものの本質を示しています。

そもそもこの苦労というのは、肉体的にも精神的にも何かと苦しい思いをして懸命に何かを為し遂げたという意味や、それだけ沢山の方々のお世話になり厄介になって助けていただいたという意味で使われます。御苦労人という言葉があるように、過去に様々な悲しく辛いことを体験し苦労をすることで人生の機微や他人様の有難さを知り人情に通じている人のことをいったりするのもこの「苦労」という意味です。

「若い時の苦労は買ってでもせよ」という格言があります。これは若い時に苦労をしたことは後のちとても役に立ちますよという意味です。

今の時代は物に溢れ、何もかもが豊かに満たされ苦労することはなくなってきてすべてにおいて甘やかされた環境の中で生きているともいえます。若い人が苦労をする場所がどれだけあるかといえばほとんどなく、苦労を体験できるところも減っているように思います。

一昔前までは、ないものづくしのなかで便利ではない社会の中で、思い通りにはいかないことで沢山の苦労をする環境がありました。しかし今は、そういう苦労はさせたくないという人たちとそういう苦労はしたくないという人たちの思いばかりで自ら進んで苦労をしようとする気持ちなど持たなくなっているように思います。

この苦労というものは人を強く逞しくし、苦労がないと人は弱く貧しくなり元気を失っていくように思います。人は成長するというのは、この苦労をするということであり、苦労をしないで成長するということはないのです。

苦労がある人の持つ人生の背景というものはとても奥深いものがあります。表には出さないけれど、その人の人格や風格、人間性や言霊、生きざまにはその背景というものがのるのです。その人生背景に苦労がある人は、人間的に豊かであり洗練され含蓄があるものです。しかしそういうものを持たないで知識だけもってもやはり何か薄っぺらなものを感じてしまうのです。

そう考えてみたら、この苦労するというのは今のような時代「買ってでもせよ」ということが大切なのではないかと私は思います。この買ってでもというのは「自分から体験を克って出よ」ということではないかと思います。

つまりは自ら大変だと分かっていても、志や使命に根差すものを持つのなら主体的に行動し失敗を恐れずに挑戦せよという意味であろうと思うのです。もちろん、挑戦すればするほどに失敗もあり辛い体験、他人様からの評価批判などに晒されてしまいます。

しかしそこを耐え忍び、辛く苦しい中でも労を厭わずに信念をもって努力精進していく中ではじめて貴重で豊かな尊い人生体験をすることができるのです。

成長というものは痛みを伴うのは有難いことであり、体験し苦労をせよという意味なのでしょう。また逆に成長を止めるということは苦労することを避けてしまい痛みを怖がって何も挑戦しないことを言うのでしょう。自立というのは、強く逞しく生きていくことなのかもしれません。

だからこそ成長というものは、そこに「強く逞しく生きよ」という独立自尊する人生の強いメッセージを実感します。このメッセージとは、「どのような環境下であってもその気持ちを忘れてはならぬ、齢を経て、人生を振り返ったときに最も大切だったのは『苦労する』であった」と教えて下さる方の言葉こそが真の智慧ではないかを自明するのです。

齢を経るというのは、成長の証が残るということ。そこに真心を持って苦労を伝えて下さる方々がいることに心からの感謝と共に、自らも成長していきたい、苦労していきたいと心が激励されるのです。

一期一会の出会いの御蔭様で苦労という人生の豊かさが真の豊かさであること、真の智慧とは苦労の中にあることを学べ気づかせていただきました。

強く逞しく、挫けずへこたれない大和魂を次世代のために奮起し実践していこうと思います。

有難うございます。

 

仲間との邂逅~尊い学び~

先日、社内木鶏会を行う中でクルーの一人の生き方からとても大切なことを教わりました。

それは「自分の行動が誰かの勇気になる」という言葉です。

これはかつて自分を鼓舞するとき、努力すれば必ず夢は叶うと信じて努力を優先するときにいつも自分に投掛けていた言葉のひとつでした。それを改めてそのクルーが努力と挑戦をする中で同じ言葉を用いていることに新ためて教えられたのです。

久しぶりにこの言葉に出会ったとき、「そうか、あれはそうだったのか」と新たに学び直しができたのです。

それは私が若い時、営業先のある方に「天知る、地知る、我知る、人知る」ということを教えていただきそれを紙に書いて机に貼っていたものと対語になっているようにも思えたのです。そのある方は御取引先の方でかなりの高齢の方でしたが、ご縁を戴く中で「誰も観ていなくても天は観ている、神様は御見通しなのだから一人の時でも慎み努力精進をし続けなさい、あなたは一生懸命だからきっと大丈夫だ」と鼓舞された思い出があります。

今になってみると、蔭ながら本気で努力をすることの大切さ、常に裏表なく陰ひなたなく誠実に自分の人生を遣り切っていくことの原点が此処に在る気がして懐古し再び感動しました。

人は同じ体験をしてくれている人を観ると、まるで自分のことのように思えます。その中で、かつて自分が出会った素晴らしい言葉にその人が出会うことに何よりも感動し、自他一体に甦るのです。また生まれ変わるのです。

この「同体験の学び」ということの素晴らしさというのは、同じ体験をしてみたいという憧れから来るものかもしれませんが机上で空論を振りかざすのではなく子ども心に無垢に素直に純粋に憧れ実践するということの歓び、その今の自分の体験の有難さに感謝できているときにそれを実感するのだと思います。

「誰が見ていなくても天が観ている」、だからこそ自分の行動が誰かの勇気になっていくのだと自分を信じて、誰が認めてくれようがくれまいが自分が信じたのだから必ず善くなると、信念を心に抱き挑戦し続けるという姿勢に、「天の見守り、御蔭様への感謝、そして有難いご縁への報恩」の新しい自分の境地を発見し続けて人生の道楽に回り逢い続けるように思います。

この世の楽園というものがあるとするならば、自分の生き方が誰かのためになっていることの素晴らしさに気づき、だからこそと自分の生を怠らず精進しようと努力するときに顕現するのではないかと私は思います。体験できる、尊い学びをいただけるとき、つながりの中で自分として生まれた価値を味わっているのです。

今の時代はすぐに近道を探したり、効果があることばかりを優先したり、結果が出そうなことばかりを選んだりしがちですが、本来は何のために人生を遣わせていただけるのかをよく内省し、健やかに実践することで目覚め、飽かずに地道に丹誠を籠めて一歩ずつ努力していこうとする姿勢に本物の自分との邂逅があるのでしょう。

いつも仲間の努力している姿に清らかな学びを得て、自分の人生の意味を再認識します。仲間の存在とは、何よりも有難いことで師友があるということは其処に尊い学びがあるということなのです。

「自分の体験は必ず誰かの御役に立つ」そして「自分の真摯な真心は必ず天に通じている」と日々の過ごし方を愛おしむように努力させていただけることに感謝していこうと思います。

尊い学びをいつもいただけるのは私の方です、有難うございます。
体験させていただける天に地に我に人に、誠を尽くしていきたいと思います。

学び方を学ぶ~発見の日々を生きる~

日々に学んでいると、新しい発見に満ちています。そういう日々を過ごしていくことが好奇心を育んでいくのかもしれません。

例えば、新しい自分というものに出会います。そのキッカケは誰かから認められたり褒められたり、もしくは指摘されたり、指導されたりしたときに気づくものです。

何も誰からも言われず、自分だけで理解するのは限界があり自分の都合が入ってしまって盲目になってしまうものです。そういう時に、素直に言っていただける人がいること、正直に伝えてくださっている存在があることが何よりも尊いと感じます。

自分というものはどのように仕上げていくのかも自分次第です。自分の人生も自分のドラマも自分の生き方もすべては自分次第で如何様にも変化させていくことは万人に与えられている自由です。

人間はどのような環境下でも私心が出過ぎると、周囲との関係に軋轢が発生したり、偏り過ぎたりしてバランスを崩してしまうものです。その私心をどのように修正するのか、どのように調整するのか、そこには人の意見を素直に聴ける力に左右されています。

そしてそこを一番邪魔するのは、知識といった先入観ではないかと私は思うのです。

それを刷り込みとも言いますが、刷り込みがあることで素直にならず、刷り込まれたことで正直が分からなくなる、本来は子どものときに学んだ学び方を、どこかですり替えて別の学び方を学んでしまったということなのでしょう。

自然の学び方と人工的な学び方、その両輪を合わせていくには自然の学び方を優先し、その後に人工的な学び方というように本来の学び方を続けていくことなのでしょう。

畏れを抱きつつ、慎み学ぶというのは古来道を歩んだ先人たちが指導した学び方の極意です。

そうやってまず学ぶ前に、その学び方を学ぶところからはじめるというのは自分自身の無意識下にある刷り込みをまず疑い、自分の刷り込みを取り除くところからはじめるという意味なのでしょう。

私も、師に出逢い師から本質を学び、本質に気づくことで自らにある刷り込みに気づくことができました。その刷り込みをひとつひとつ取り除くうちに、本来の自然、赤ちゃんの頃の学び方を思い出すのです。人間として学ぶのは、万物全てにおいて丸ごと学ぼうとする力、発見していく歓びと発明していく幸せ、つまりは新しい自分に出会い続ける価値があることを自覚するのです。

刷り込みというのは、当たり前のところにありすぎてそれが観える人になるか観える人から指摘されるかもご縁のように思います。真理にあって真理に気づくのもまた人間のご縁ですから縁尋は本当に奇妙なのものです。

だからこそご縁をいただけるように願うように、自分から自分の価値を日々に再発見し再発掘していくことは刷り込みを取り除くことと同様に何よりも大切な学び方のポイントであろうと思います。

日々、新しいものに気づく感性を、流されずに楽しむ好奇心を甦らせて新生し続けようと思います。忙しい時こそ、仕事の量が多い時こそ、学ぶ機会が沢山来ていることに感謝し、どんなことも見逃さず遣り切っていきたいと思います。