丹念を積む

人間は目的を見失ってしまうと本質から外れてしまうものです。

これは、全体と部分の物の見方にあるようにも思います。全体のことを最初に考えてから部分に入れば、全体としてどうしたいのかというものは確認することができます。しかし部分に入ってしまえば、途端に全体が見えなくなってしまい問題がすり替わってしまうというものがあります。

以前、大工の棟梁の話の中で、棟梁は常に全体を観るから作業をしないということを聴いたことがありました。職人というものは、入り込んでしまうのでどこまでやるのかということを見失い没頭してしまうので常に全体を視通す役割を棟梁がしているということです。

これに似ていて全体にとっての問題の解決と、部分にとっての問題の解決に視野の隔たりがあるように思います。常に全体や部分を行き来しながら問題を解決していくというのは、御互いが役割分担をしつつ大きな目的のために心ひとつに取り組もうということです。

そして本質や目的から外れないというのは、常に全体も部分も「つながっている」「無駄は一切ない」と信じ観えるようになっていること、言い換えれば私心が入り込んでおらず真心で取り組んでいるということを忘れないということであろうと思うのです。

真心で行うことは、そこには自分の都合や自分さえよければや自分の私心といったものが入り込む余地はありません。人間はどうしても自分の計算を入れていくからそこに自分寄りに物事を運ぼうとしたくなるものなのです。

先ほどの棟梁のお話ですが、飛鳥時代の大工はみんな棟梁たちのような仕事をしていたともありました。先人たちは、丹念や丹誠を籠めてひとつひとつのいのちを大切にして過ごしていたのかもしれません。目的を忘れずに取り組むプロセスそのものを何よりも重んじたということは、そこに道や信念があったということを覚っていたからのように思います。

先人たちに見習い、どのような御仕事も本来は何のために行うのか、そもそも目的は崇高な理念や大切な志のためではないのかと、自らのいのちのある時間に真心を尽くして手間暇を惜しまず手入れをしていこうとするのが本質から外れないことのように思えます。

本質というものは、自分のいのちの遣い方なのです。

意味のないものはなく必用なことを行うのだから、増えるとか減ったとか、遅いとか早いとか作業のような観念に縛られるのではなく、そのどれも勿体ない尊いお仕事をさせていただくのだと有難く一つ一つを丹誠を籠めて丹念に取り組んでいくことが目的や本質そのものと一体になっていることなのでしょう。

師走に入って何だか気分から忙しなくなってきている気がしますが、どのお仕事にも丹誠と丹念でと戒めていきたいと思います。毎日に流されず作業にしないで、その一つ一つの意味を丁寧に見極め意味づけし自分のいのちの時間をじっくりとかけること。

増えることや手間暇かけられることに、真心をさせていただく機会が増えたのだと感謝し、気持ちを鎮め、お腹の丹田から熟慮して時事を判断していきたいと思います。

仲間と一緒に集まり取り組む尊い機会が初心の確認となっています。
有難うございます。