真面目の罠

刷り込みの一つに真面目さというものがあります。

どの職場であっても真面目というのは美徳とされているものです。それはサボらないという意味で使われています。特に、保育の現場ではほとんどすべての方々が真摯に子どもたちのためにと努力されていて不真面目である人を見かける方が少ないように思います。

しかしそこに一つの刷り込みの罠があることに気づきます。

それは一見すると真面目なのはいいことなのですが、真面目過ぎるのではないかと感じることが多くあります。それはサボらなければいいと勘違いし、努力する方向が間違っているのではないかと感じるときです。

例えば業務を行うことはきちんとできているのですが、大切な本質や目標に対してはどうかといえばそれはどこかに御座なりになっていてもそのままでも真面目にやろうとしているのです。

この時の真面目というのは、遣ることは真剣に遣っているのだから真面目という意味です。

しかし本来の真面目さというものは、目標や初心、理念を達成するために本気であるという意味が本質であるように思います。そのために日ごろから目標を達成するための努力を怠らないということです。

またそこには主体か受身かというモノサシも入っているのかもしれませんが自分自らで達しようとするときの真面目さと、周りの評価を気にしやらされているときの真面目さとがあり、その真面目という言葉でもその目標設定次第でその定義が異なるように思います。これは誰かに与えられた目標に真面目か、自分から決めた目標に真面目かという意味です。前者は自分の人生に不真面目になってしまうこともあるのです。

この真面目という言葉の中の、面目という意味は、1 世間や周囲に対する体面・立場・名誉。また、世間からの評価。2 物事のありさま。(goo辞書)にはあります。しかしここに真が入ることで、本気や真剣という意味になるのです。

真剣に取り組むこととは目的に対して本気になるということであり、真の真面目さということは真剣勝負をするということです。単にサボらないように必死にやるのは実は真面目過ぎるのであり、それは不真面目になることもあるのです。

いつも真面目に行うというのは、他人の評価を気にすることではなく大切な目標や目的を達成するまで徹底的に取り組むということであろうと私は思います。

私はよく不真面目のように見られることが多いのですが、目標を達成するためのしつこさや諦めなさはシブトイと言われます。寝ても覚めても一つのことばかり考えますし、何が何でも解決することだけしか興味がありません。一見、寄り道ばかりして遊んでいるように思われるかもしれませんがそれだけ真理を探究し、他人事を自分事にし、真面目になっているように思います。

それは単に真剣にやることが問題ではなく、「必ず理想を実現するのだ」という真面目な心が働いているのかもしれません。

真面目にやっているのだからという自分への甘えが実は最大の不真面目になってしまうのかもしれません。この落とし穴に落ちればまた同じことを単に繰り返しますからもったいないように思います。ちゃんと仕事しているのだからという理由で毎日残業しても、大切な理念や目標がそれで果たして達成するのかと本質から考えてみるのも一つの方法かもしれません。

真面目不真面目という両極で考えるのではなく、「真剣かどうか本気かどうか」というモノサシで取り組んでいくことを大切にしていきたいと思います。

遊び心とは、本気であるから産まれるものです。本質を維持するために敢えて型破りも辞さないのです。周りの評価を恐れず、本質を達成することに勇敢に真摯に真面目に実践していこうと思います。