現場実践

先日、ミッションパートナーとのふり返りの中で心身についての話をしました。最近は、唯物的な社会思想の中で心というものがどれほど大事かということを忘れてしまっている若い人が多いといいます。

そもそも人間には、「考える」ということと「思う」ということがあります。考えるというのは、頭で考えるということであり、思うというのは心で思うということです。

これはまったく住んでいる世界観が異なるほどの違いがあります。

考えている世界というものは、形式知と言われるもので客観的に分析したり冷静に対応したりと起きている出来事や事物をそのままの形にして判断していくことができます。私も考えますが、それは説明するために理論化したり論理的に何かを表現するときなども用いいます。

しかし心の世界というものは、暗黙知とも言われ自他を思いやり、心を通じ合い、寄り添い共感したり、互いに感じ合ったりといったそのものの事物や出来事の背景までを感覚的に直観したりすることができます。私はいつもこれを何よりも優先にし、心が常に働いているかどうかと自分の状態に気を遣っています。

これらの考えると思うということは何よりも大切なことがらで、どちらを優先しているかで貢献していく形が異なっていくのです。まず考えるだけになったなら、どこか冷めていて何か事が起きても大変だと考えればすぐにやりたくないという考えが頭をもたげるはずです。そんな考えることを優先していたら、もし行動できても何かが起きたらすぐに避けたい楽になりたい方を選択してしまうように思います。

しかし、思うということを大事にしたなら、強い思いをもっているので情熱的に果敢に挑戦していき大変だと思っていても心が折れずに最期まで遣り遂げることができるように思います。そして日々に思い続けて思いをカタチにしていくのなら、避けたいや楽になりたいというよりも、向き合いたい、味わいたいという方を選択していけるように思うのです。

この「思い」というものの力は、誰かの役に立ちたいという願いであったり、何かの目標や志を持つことでより強くなります。

しかしこれらの目標や志であっても考えただけのものであれば、それは目標風、志風というような心で本物にしたわけではなく単に知識だけで象られたものになっている場合が多いのです。

だからこそ、常に「思う」、「思い続ける」という実践があってはじめて思いは醸成されるとも言えます。思いは、心で行うものですから辛く苦しいことばかりです。時には心が痛み、心が疼き、心が傷つき、心が張り裂けそうな思いを沢山します。

そういう思いを沢山して、その体験を通じて思いを固めて思いを決めて思いを本物にしていくことができるのです。そしてそのあと、はじめて考えてみればより思いをカタチにしていくために具体的な方法を活かしていくこともできるのでしょう。

狭い学校や知識の中で生きているのなら考えているだけでもいいのかもしれませんが、実際の社會では人々は沢山の苦しみを持ち、人々は多くの悲しみを背負って生きているのです。

そういう人たちの力になるというのは、心からの自分、「思い」を持った人になり、共に道を歩み手と手を取り合って助け合っていくことなのです。そして心から思うことに生き切る日々を積み立てて立志と言うのでしょう。

だからこそ考えてみてたとえ辛そうでも、そこで心を閉ざそうとせず我慢し、思いを引き出し思いを育てるために心を開き続けていくことを恐れてはいけません、心が傷つくことも避けてはいけません、人生は一度きりなのだからそういう苦労体験を若い時は買ってでもして、本物の努力をして成長していくことが大切なのでしょう。

知識偏重型というのは、物の世界です。ここでは共感中庸型ともいってみますが、心の世界も常に存在し同時にあることを気づいてほしいと願います。

現+実(現場実践)とはその両輪があってのものですから、「思いの醸成」になる実践をしっかりと積み重ねていきたいと思います。