職域を超える意味~役割分担~

昨日、見守る保育職域セミナーが東京で開催されました。

全国各地からそれぞれの職種、保育者や栄養士、調理師や看護師という人たちが一堂に集まり同じ理念で語り合う会です。

もともと私たちは自分の立場から物事を考える刷り込みをもっています。

例えば、会社であれば営業は営業目線、経理は経理目線というようにそれぞれの目線といった価値基準で正しい正しくないと判断しがちです。

しかしこれらの判断が正しいと思い込んでいたら、御互いに議論してもいつも平行線となり本質的に協力して一つのことを実現していくことが難しくなります。特にチームで何かをやろうとすれば、自分の立場を超えてそれぞれの役割を活かし合う関係が必要になるからです。

職種や立場というものは、部分で切り分けられたところに存在する領域のことです。それは部分では正しいことであったとしても、全体で観れば本当に正しいかどうかわからないものです。分かりやすい例は、諫早干拓などもそうですが農業と漁業で、農家を守るか漁師を守るかとそれぞれの立場を優先してせめぎ合ううちに森も海も死んでしまい職業が成り立たなくなることに似ています。

御互いの言い分を通そうとすれば、部分での正論が立ちますが全体では何が最適であるのかがその途端に観えなくなるからです。常に全体に対して何が最善か最適かを語り合うことで、御互いの固定概念や価値観、刷り込みを超えて協力できるようになるのです。

同じ理念を持つということは、自分の価値観よりも優先するものがあるということです。

自分が所属するその場をみんなでどのようにしていきたいか、自分たちが本当に目指す理想や理念のために自分をどう変化させて近づいていくか、そこに職域を超える理由があるように思います。

人は立場で役割を分けるのではなく、本来は目的や理念のために役割があるということでしょう。

何がもっとも大切なことか、何のために働くのか、それが目的や理念を実践するということになるように思います。仕事とは、作業分担ではなく役割分担であることを忘れてはいけません。

理念や理想を握り合うことで御互いの立場への思いやりも、そして楽しみや有難さも実感できるように思います。まずは私たちの会社がモデルとして実践していきたいと思います。

オープンマインド

オープンマインドという言葉があります。

これは心を開くという意味や、広い心でありのままを見せるという意味もありますが四字熟語では虚心坦懐といって包み隠さず自分を見せる事で、相手に飛び込んでいく力であったり、開心見誠といって自分を偽らず、虚勢を張らず、素直な気持ちで教えを受けて仕事に活かす力であるといいます。

よくオープンマインドと言われる人は、自然体で自分らしい姿があるから人によく可愛がられるものです。自分を理解してもらうのに、ありのままの自分を見てもらうことで周囲がその人のことを理解し、そして自分から理解してもらいやすいようにするのです。

これを自己開示といって、自分から自分の価値観を開示することで周囲に色々な価値観があっていいという広い心を示すようにも思います。

よくチーム力の中に、チームワークを乱すのは心を閉じることだと言われます。クローズマインドです。言い換えれば、この人は、またこの人たちは自分とは違うと決めつけて分けてしまう差別心や固定概念のことです。

そもそも人は異なるのは当たり前ですが、それを丸ごと受け容れているのか差別するのかでは意味が違ってきます。違いを認め合えるというのは、自分を含めあるがままの価値観を広く受け容れるということができているということです。

誰かと何かを共にする場合、違っていてもいいと思えるのはそれぞれの人がそれぞれの個性と価値観があってもいいと認めることからはじまるのです。そこから共通している価値観を探したり、自分の価値観が相手に影響していることを自覚しつながりを共有する歓びを実感するのです。

そしてそれは、相手に求めず自らが自分というものを開示するということであろうと思います。

そうやって自己開示をする人は人に可愛がられます。それは、自分から心を開くことで周りが安心するからです。チームワークには「安心」は何よりも欠かせないキーワードですから、心を開く人がいることでチームの潤滑油になっていきますから周りもその人を重宝していくのでしょう。

これはどの仕事でも必須の能力であり、自分から相手に心を開くことではじめて相手も自分に心を開いてくれるのですから自分を頑なに保持していたらいつまでも相手は自分を認めてはくれないのです。

オープンマインドの本質は、「心は開くためにある」という意味です。

心がなければ別に開く必要もなく、自分の固定概念や価値観を優先して周りを気にせずに好き勝手していればいいのでしょう。それではいつまでも自分の殻の中で閉じこもってしまうことになります。

だからこそ心があるのです。

心とはそのもの自体が世界へと目を見開いている状態であり、現実的に世界に出ようが出まいが、心が開かなければ本当に世界に出たわけではないのです。私も若いころの経験に、自分に見えている世界だけがこの世界だと勘違いしたことがありましたが、世界は心を開いた時にだけ無限に広がっていくのです。裏腹に自分を良く見せようとすればするほどに、それだけ世界が退行し閉じていくのを覚えています。

心を遣うというのは、他人に心を開くということです。心を開いていないで他人に接してもそれでは心を遣っていることにはならないからです。そしてそれは言い換えれば温かい家族のような関わりを拡げていくことのようにも私は思います。心を開いていれば、自然に心が通じ合って共に思いやり分かち合うという素晴らしい関係が築けるように思います。

今は頭でっかちに理性ばかりを偏り発達させている社会ですが、人間として心を遣うことを発展させていくことが幸せの道しるべなのかもしれません。

いつも自分から心を開いて、周囲と接するのは傷つくこともあるかもしれませんが心を育てていけるように実践をしていきたいと思います。

 

父母

父母いうことについて考えてみました。

私たちは何をもってお父さんとし何をもってお母さんと言っているかということをあまり深く考えることがありません。子どもができたら父母になるというように、父母の存在は子どもの誕生で自覚するものだと一般的には思うはずです。

しかしその父性や母性となると、お父さんはどのようなものでお母さんはどのようなものかという定義が観えてくるように思います。実際は、私たちが母に直観しているものは例えば母なる地球のような大きな存在として母を感じることもできます。父も同じように偉大な存在として感じることもできます。

子どもにとっての親というものは、単に育ててくれたのではなく、大切なものを育ててくださった掛け替えのない存在ともいえるのです。中江藤樹に「父母の恩徳は天よりも高く、海より深し」とありますが、これはその父性と母性を語った言葉であるようにも思います。

先日、あるご縁がありそれを明快に語っている文章に出会いました。それはあのインドのカルカッタで偉大な祈りの実践を示したマザー(母)と呼ばれるテレサが語った言葉です。ご紹介していた著書の中から抜粋します。

『「マザー・テレサ、お母さんって何ですか?」と聞きました。すると、「お母さんというのは子どもを産んでも産まなくても関係ないんだよ、そこにいるだけで安らぎと喜びと希望をもたらす存在、それがお母さんなのです」と。これがマザー・テレサの言う「母性」で、それこそが二十一世紀を築くのだと言われました。「では、お父さんとは何ですか」と、私は恐る恐る聞きました。「お父さんには経済的に家族を支える大事な仕事がありますが、もっと大事なのは正義を愛すること、正義のためにいのちをかける、それがお父さんです」とおっしゃいました。正義を生きるお父さんは権威が身につくと言われました。権力ではなく、権威です。お父さんが正義を生きることで家庭は一致できる。今、あの人は日本の代表的なお父さんだ、と言われるような人はまわりを見回してもいませんね。お父さんはやはり正義をいきなきゃいけないのです。現代はこのお父さん像が薄れているわけです。』(「生命のかがやき 農学者と4人の対話」 中井弘和著 野草社より)

お母さんとお父さんとは、どのようなものであるのか。

私達の生き方そのものの中にお母さんとお父さんが住んでいるからこそ、平和で安心した家庭が築けるように思います。役割とは、表面的なもので行うのではなくその真心の中にこそ存在しているのでしょう。自分の中に父母の恩徳が恵まれていること、父母の役割をいただいていることに感謝の気持ちで一杯になります。

そして、さらにこういうメッセージが続きます。

『「そして二十一世紀を背負う子どもは、私の娘、私の息子というのではなく、神、仏からの授かりものなのです。マザー・テレサは「神の似姿として子どもは贈られてきた。私の子どもであると同時に神の似姿としての存在で、その子どもを上手に育てると、神や仏や聖人や菩薩になる。だからお父さん、お母さん、学校の先生、みんな神様に育てあげてください。」と。』(「生命のかがやき 農学者と4人の対話」 中井弘和著 野草社より)

保育ということは、何よりも大切な使命です。

自分たちの心の中に父母が居て、その父母を求めて自らの実践により子孫へ推譲していくということ。自分がしてもらったことを人に与えていくということが、私たちが子どももでありそして親であるということのように思います。

親子が代々つなぎ託してきたのは、愛ということです。

こういうもの一つ一つを、日々の生活や仕事の中で生かしていくことこそが本来の働きであろうと思います。仕事は作業とは別に生き方という志事が存在しています。とはいえのない保育を広げていくためにも精進していきたいと思います。

玄の原理

昨日、玄米講習を行い伊賀焼の土鍋を使って玄米を炊きその原理を説明しました、

そもそも玄米というものは、食の主であり、私達日本人がもっとも長い間共に暮らしてきた大切な仲間です。玄米のお米は種のことであり、その種を持ちその種を活かし、その種の廻りと共に歩むのです。

もともと年齢と書く「齢」という字も、お米の字が入っているように私たちは一年をお米の廻りで時を刻むように暮らしてきたのです。その食の主、つまりは主食を玄米にすることは私たちの風土に合った食事に食い改めることで生き方もまた日本人の心に回帰していけるように思います。

そして種というものは一見、固まってじっとしているので芽が出た植物などと違って死んでいるかのように錯覚する人もいますが種はいのちがびっしり詰まっているものです。ここから造化の根源力を発揮して種の何十倍、何百倍も成長していくいのちの原点が入っています。

その原点を食べるということは、細胞一つ一つに至るまであらゆるいのちを活性化する効果があるように思います。もちろん科学的にも、フィチンが多いとかビタミンBが大量だとか、ギャバとか食物繊維がびっしりとか色々と数値化されますが、玄米には数値化されない価値が存在しているのです。

そもそも人間が数値化ということをしてから、本来のいのちや全体を捉える感性というものが衰えたともいえます。数値化できないものを読むのが空気であり、五感や六感という感覚であったり、人間本来が持つ本能の力なのです。

玄米信仰などと他人に言われるように思われても、実際に病気の時や日頃の不摂生の時に食べたら回復に効果があるのは一食瞭然ですから玄米の価値は数値や言葉にし難いのでしょう。それに玄米を食べると運が善くなると言われますが、御米の種を食す暮らしが日本人本来の天地自然農合一、つまり一物全体になることで無駄を一切発生させないということや、捨てるところがないというところにも循環に沿っているということと関係するのだと思います。

地球の循環を邪魔しない生き方というものは、自然の天理に従っていますから次第に運も循環ですからそれに則るのです。

しかしこの玄米が嫌いになってしまうという理由もあります。それは料理法です。一般的な電子調理器やガスを使っての鉄器の道具ではあまり美味しく感じないのです。それは例えば、焼き魚を焼く際に、電子レンジとガスと炭火で焼くのでは味が異なるのと同じで自然のものは自然の調理で行う方が私たちの細胞は美味しく感じるのです。

理由はいのちをいのちのままに食べることにつながっているのです。玄米の場合は、土鍋で炊くことでいのちを伸ばします。土鍋には、自然の原理である水の浸透や熱の伝導といった土が持つ自然の受容力が働きます。

この土の働きによって火と水で炊けば、地球の原理(土中のマグマや水中のいのち)を融合しますから玄米の種をそのままに優しく包むように調理することができるのです。

そうやって調理された玄米は、とても美味しく食べたものがそのまま人間の身体に負担をあまりかけずに吸収することができるのだと私は思います。

基本を何に据えるかというのはとても大切なことで、当たり前というものに気づいてそれを改善するかどうかが生き方につながっていると私は信じています。玄米というものを用いて様々なことを見直すのは、自然か不自然かを観る眼を育てていくと思います。

引き続き、自然が何か、本物が何かということを学び直していきたいと思います。

ワークライフバランス~常実践の法理~

ワークライフバランスという言葉があります。それは仕事と生活の調和というような意味があると表現されます。

それに対して生き方と働き方の一致というものがあります。生き甲斐や遣り甲斐、働き甲斐といったものですが本来はこの状態のときにはじめて私は調和していると思っています。

しかし実際はどうかといえば、生き方と働き方を「分けて」いる人があまりにも多いように思います。これは分けることで自分の生活のバランスを取るという刷り込みを持っているからだと思います。

例えば、一日は24時間しかありません。その中で、仕事の時間、趣味の時間、家庭の時間、勉強の時間、友達との時間など、すべてを分けて考えているとします。するその全ての役割を全うしようとしていたらとても時間が足りるわけがありません。それにそれも分けて考えようとするのは自分の都合ですが人生は分かれていないのだからどれも深く関連しているとも言えるのです。

これを自分の都合で分けるとき、そのしわ寄せというものは必ず他の何かに悔い込むことになるのです。本来のそれらは分かれていないものを自分の都合で分けたのであって、分けてはならないものを分けているから問題なのです。

自他を分けたモノサシではなく、自他一体のモノサシに転じれば、仕事も趣味、趣味も仕事、家庭も仕事、仕事も家庭、勉強も育児も友人との語り合いも全て生き甲斐であるという境地、つまりは分けないで取り組む時にのみワークライフバランスは実現するように思います。

これを仕事とプライベートというように分ければ、どちらかの時間のためにどちらかを犠牲にするという発想になったり、それでも無理をしようとすると本来の生き甲斐や働き甲斐といったものとかけ離れた生き方になってしまうかもしれません。

私達の子ども第一主義という生き方も同じで、子育てをしていれば子ども第一主義かというわけではなく、全てのことをもしも子どもだったならと子どものモデルになるような生き方を実践するとき分けていない働き方になっているのです。

これは「分けない」、すべては実は「つながり同じこと」なのだから全てにおいて生活を一つに結んでいくこと、言い換えれば常に「生き方の方を優先し、生きざまを重視すること」で調和に近づいていくように思います。

何事にも理念があるということは、その理念に沿った生き方というものがその後にあるのです。

それを理念と自分を分けたり、生活と仕事を分けたりしていたらいつまでたっても生き方や生きざまには辿りつかず、その先にある生き甲斐や働き甲斐とも出会えないかもしれません。それにそういうことをいつまでもしていたら「本心」が分からなくなってしまいます。人は自分の本心に確認し取り組むからこそ、迷いが消え去り覚悟が決まり真に成長していくことができるからです。

一度しかないのが自分らしさ、そして自分の人生なのだから、分けるのはとても勿体ないことをしているのです。生き方と働き方の一致、つまりはライフワークバランスとは「自分らしい生き方そのもの」を常に優先しているかということによるのでしょう。

この自分らしさを正しく実践することで未来の子どもたちへきっと健やかに逞しく育つ意味が背中を通して伝承できるように思います。自分の我や、社会の刷り込みにもっていかれないように自らの本気本心の常実践で伝えていきたいと思います。

勇気

人は何かに取り組む際に、自信があるとかないとかを基準にすることがあります。

しかし実際は、自信があったら何でもできるわけではなく、自信がないから決してできないというわけではありません。これは自信というものは、物事の見方や捉え方に関することであり前例があることは自信があり前例がないことは自信がないということがほとんどだからです。

では自信があるないに関わらず、何をもって取り組んでいけばいいかと言えば勇気を出すことのように思います。そして勇気とは覚悟を決めることなのです。覚悟とは勇気を引き出すために行われる自己との約束とも言えるものです。

勇気というものを辞書で調べると、「いさましい意気。困難や危険を恐れない心。」と表現されています。つまりは心の力のことであり、心が強いということです。よく私も気合で乗り切るようなことが多いのですが、これらの気合や真心が勇気を発動していくように思います。

この勇気というものは人生に多大な影響を与えるように思います。特に頭で考える人は自信があるないから入りますが、心の鍛錬を行う人たちは勇気を出すか出さないかという選択に変わっているように思います。

アメリカの作家で、アンブロウズ・レッドムーンにこういう言葉が紹介されています。「勇気とは恐れを知らないことではない。恐怖よりも大切なものがあるという。決断のことである。」

恐怖よりも大切なものがある、これは仕事で言えばお客様であり、家族でいえば子どもであったり、会社でいえば社員だったりと、守りたいもののために自分を盡そう、自分を捧げていこうといった、今の自分の固定概念が壊れる怖さよりも、それを崩してでも大切なものがあるのだからと念じて出てくるのが勇気だということです。

人は自分自身がまず一番大切なのでしょうが、もしも自分と同じくらい大切な存在に気づけば勇気も愛も自覚していくように思います。自暴自棄などというものも、大切なもののために勇気を出せなかったから自己嫌悪でそうなってしまうことが多いように思います。それが続くから自信がまたなくなってしまうのです。

またどれだけこの「勇気」というものが人生において大切かというのは偉大な先人たちがその生きざまや言霊で遺してくださっています。

「人は何度やりそこなっても、「もういっぺん」の勇気を失わなければ、かならずものになる。」(松下幸之助より)

「勇気というのは強いからとか、勇ましいから勇気があるというのではない。たとえ、自分にとってどんなに不利な結果になろうとも、自分が真実であり、妥当であると考えたことを認め、それに賛成することこそが勇気である。」(本田宗一郎より)

畢竟、最初は誰だって怖いしできないと思うものですが勇気を出して取り組んでいればいつの日か揺るがない自信になっていくのでしょう。大切なもののために生きているからこそ、人はそれに相応しいほどの自分が次第に出来上がっていくというのが役割と責任の享受になるのでしょう。

自分を自分で育てるには、自分により大きな責任を課して大切なもののために実践するということを継続していくことのように思います。

この勇気とは、私たちが元々持っている本能であり、人間として自然の中で生きてきた素晴らしい徳恵であることを感じずにはおれません。勇気を出すのは誰が出すのかが問題ではありません、誰でも勇気ある決断をしたときから世界が変わっていくということなのでしょう。

最後にピータードラッガーの名言で気合を入れ直したいと思います。

「成功した企業は、きまって誰かがかつて勇気ある決断をした。」

自分自身の変化を恐れないのは自分自身から出る勇気です。大切なもののために自分の使命を果たそうとする風土を自らの実践により醸成していきたいと思います。

 

共生の間柄~一緒に暮らす仲間たち~

先日、種麹屋についてのことがテレビで放映されていて改めて再認識することがありました。

もともとあった野生の麹菌を品種改良して、毒のない麹菌を育てそれを種麹にして販売しているというというような内容だったと思います。そもそも麹というものも菌の一種で、野生のものには人間にとって有害な毒気もあったとのことです。それを何度も何度も人間が手入れをしている間にその毒気が次第になくなってくるとのことでした。

西洋では、人間が品種改良して管理するうちに人間にとって有益なものになったという言い方をしますが私は本来はそういうものではないように思います。

例えば、犬も昔は山犬、つまりは狼であったり、鶏も昔は山林の中に棲んでいたものでした。それを何年も共に一緒に暮らしているうちに次第に毒気がなくなってきて御互いに有益な関係になっていく。つまりは、これは品種改良を人間がして管理してきたのではなく、共に暮らして共に思いやって必要とし合って助け合ってきたということだと私は思うのです。

そもそも虫や動物、植物のことを管理するという思想は西洋から渡来したものです。本来は、これは友達であったり仲間であったり兄弟であったり家族であるように愛おしみつつ慈しみながら大切に育て合ってきた共生の間柄なのです。

だからこそ互いに思いやるうちに次第に心が溶け込んで御互いに友人以上の関係を築いていくことができたのです。これは動植物に限らず、物にだって心があるという概念であり八百万の神々、全てのものに魂が宿る、かんながらの思想の原点です。

私が活きているということは、周りも活きているということですから互いに思いやっていけば次第に仲良くなっていくはずです。これは植物同士の関係でも同じく、稲と周囲の野草と虫との関係、動物と植物と人間の関係、そこには確かな結びつきが在るのです。

こういうものを理解していけばいくほどに、如何に管理していくという発想が本来の共生関係を崩していくのかということを自明します。管理するのではなく、仲良くしていくということは共に相手を思いやりながら助け合っていくことをいうのです。

そこには有益か有害かという二者択一ではなく、一緒に生きようとする心の優先です。

よくよく考えてみると、お米も数千年一緒に歩んでいます。他にも大豆や、身近な蜘蛛やトンボ、燕や犬や猫、牛や馬、木や山々もすべて共に生き続けてきた大切な仲間たちです。

そういうものを大切にしようとする真心が、私たちの豊かな風土の由縁であり由来でしょう。

今年は「里」をテーマにしています。
里には共に暮らしてきた仲間たちとの関係が再発見できそうでワクワクしています。

祖神たちの生き方に見倣いつつ、引き続き仲間を大切に暮らしていきたいと思います。

固定概念を崩す

人間には固定概念というものがあります。これは「きっとこうなのだろう」と常識をその人が思い込んでいることのことです。

例えば、大勢の人たちが話すことを人は無条件で信じるものです。他にも知識が長けている人の話を聞くときも信じますし、目に見える世界がそうなっているのならそれをそのまま鵜呑みに信じています。

そうやって自分の中で常識として定着してしまうのを固定概念というように思います。そして賢くなってくればくるほどに、こうでなければならないとか、こんなの無理だとか、できるはずがないといった自分の中に壁を設けてはそこがハードルになって変革することができなくなるのです。

しかしこの固定概念というものは曲者で、その人の信じる質量でその内容も決まってしまいます。エジソンなどの発明家のように、最初から不可能を可能とし挑戦と努力を継続し、信じることを諦めない人の持っている固定概念と、最初から何もしないでできないと思い込んでいる人の固定概念ではその内容も意義も変わっているからです。

どのような固定概念を持つか、それをセルフイメージと英語では言うのかもしれませんが自分の中の常識が一体どうなっているのかを確かめるということです。そうしてその固定概念を刷新できたときにこそ自ら希望を産み出すことができるのです。

そして人はこの希望を持つとき、この常識が崩れ始めます。

つまり「常識」が崩れ続けるとき、それを人間は「希望」といい、その希望が得られたことを「奇跡」と呼びます。この奇跡といったミラクルとは、常識が異なるものを発明したり自明したり、そして実現するときに実感するものです。

そして奇跡とは、その人の常識を刷新するほどの信念を持ち、その信念を曲げずに諦めなかったことで希望が手に入り、その希望が継続していく中でいつの日か結果が顕われ伝説となり伝道されるのです。

誰しもが不可能と思うことに挑戦するのは、いつまでもその希望を捨てないからです。

昨年からの問いがようやくここで開花してきています。自分の常識を壊し続けられるように、バカになってムリをせず野生のままに歩んでいこうと思います。 自分の使命は、どうも其処彼方にあるようです。

いのちの仕組み

昨日、式年遷宮後の伊勢神宮を参拝するご縁がありました。

現在では、旧くなったお社の横に出来たばかりの新しいお社が建っています。その両方を同時に拝見できるというのは、有難いことのように思います。

そもそも神道には「常若」という思想があり、式年遷宮は「常に若々しく永遠に滅びない」という仕組みで甦生を繰り返します。

これは大切なものを大切なままにいつまでも永遠の真価を発揮し続けるという「いのち」の理を顕現させているように感じます。

いのちというものも等しく、その永遠の価値を持ちます。いくら生死が廻ったにせよ、その風土、その時空には目には観えなくても確かにいのちの廻りは永劫しています。それを実感するために神道では古びれても新しいままといった「旧くならない実践」を続けているように思います。それがかんながらの道の一つでもあります。

そもそも人間には直観的に知覚できる本能というものが備わっています。そこには、目では見ていないものを観ていますし、鼻や耳、舌などをつかって本能が天地の道理を嗅ぎ分け聴き分け、玩味するというように表面上の感受ではなく、真相の感受のような自然の直観力で全体を容受するのです。

これは代謝でも同じですが、考えなくても脈動や鼓動、循環、浸透、伝導などを続けるように本能は常に私たちの心身体を活かし続けます。ここにも神体としての私たちの本能が已まずに甦生を続けている証です。

この甦生という仕組みを通して、何を遺しているのか、何を復刻し続けているのかを実感するのが本能の容受です。これは自分たちの中にある初心をいつも忘れないことやかつての私たちの姿を伝承することなどが秘められている仕組みなのです。

例えば御蔭様という意味一つであっても、今の私たちが存在するのはどういう祖神の徳恵の中であるのかもまた式年遷宮を通して実感できるものです。目に見えるものは、次第に形を崩していきますが目には観えない大切なものはいつまでも変わらないということは、今生きている人たちの真の生き方の初心を省みることで直観するのです。

メッセージとして、神代から続いているものを私たちが新しくするのだという覚悟です。

私たちの「いのち」は神代から先祖伝来、子々孫々までそれを維持するのに肉体は何度も甦生を続けてはこの世に止まっています。そして私達は決して古びれても古びれない、いつまでも新しい時代を新しくしていくのは私たちの使命なのだという決意を覚えてはいのちの輝きを保ち続けたのでしょう。

そもそも永遠とはいのちなのです。

参拝をしていると、次第に夕暮れ、そして月や星が瞬いていました。

あの星々のように、宇宙の中で永遠の光を放つ私たちの「いのち」と同化していたいものです。いろいろと人間は自然から離れて、考えすぎて不完全燃焼になったのでしょうが常に「いのち」に立脚して完全燃焼を続けて甦りを続けていきたいと思います。

今年は甦生と関連が深く、そういうお仕事とのご縁をいただいています。伝承の大切さ、いのちを伸ばす仕組み、そういったものを現場のお仕事で実感しつつ直観し、常学常問を実践していきたいと思います。

式年遷宮とのご縁と邂逅の御蔭様で自分自身の感覚も温故知新できました。「いのち」余すところなく存分に発揮していきたいと思います。

道具~自物一体~

道具を創るというものの中にいのちを吹き込むというものがあるように思います。

変な話を書きますが道具とは、その作り手の魂とそのものが一体になったときに新たないのちが芽生えるように思います。そもそもこれは東西の思想を超えて、自分が創るというものにポリシーがあるかどうかという問いがあります。

どれだけの思いを籠めて創られたのかというのがそのものの価値であり、そのものの本質やそのものの特性をどれだけ活かし切っているかというものがその道具にいのちを蓄えるのです。

例えば、木や土や火や水、風や石を錬金によって変化させ、それがその時代を貫く本質として道具になる。その道具を使う側の魂とどの道具を創った側の魂、そして道具自体の持つ永遠の魂が折り重なってはじめて本物のいのちが新たに吹きこまれるのです。

道具を活かすというのは、その道具のいのちが観えているかということが大切なことのように思います。どれだけ長い時間をかけて丁寧にいのちを傷つけないように創られてきたか、そのものの本体が壊れないようにと最新の注意を払って育ててきたか、それはいのちが観える人だからこそポリシーを持ってその道具と自分自身が一心同体になって練り上げていくのでしょう。

今の時代は、そういう作り手の心を読み取ったり、作り手のいのちを削って行われたプロセスを観なかったり、作り手がどんな願いで取り組んでいるかという哲学を知らなかったりしたままに、単なる道具をモノとして使う人が多くなったように思います。

本来、モノにもいのちも心も魂もあります。

それは身近な小さな石ころでさえ、こちらがいのちを観ようとすれば観えますし、心を籠めていれば心が入りますし、魂も磨けば光ります。

目に見える世界だけで道具を単なるモノにするのではなく、そこにある大切なものをなくさないようにと、有難い、勿体ないという道具そのものの中にあるもいのちが感じられる自分でいることではじめて道具は生き活かされ互いに人物になるように思います。

道具を用いて活かせる人と活かせない人がいるのは、道具に対する自らの姿勢を正す人と正さない人の差なのかもしれません。今のように便利さが追及され、何でもお金で手に入る時代は、その道具が産まれたプロセスやその道具のいのちまでは感じる余裕もないのでしょう。

物というのは語り手がその物語を伝承していくようにも思います。
作り手からの願いを物語に表現して伝承していくのも伝道志の大切な御役目です。

当たり前の中にある有難い存在としての道具を、もっと大切に実感することを忘れず感謝で大事に一緒に生きて活きたいと思います。大切な道具にしてくのも自分、自物一体に自他一体に溶け込んで丹誠と真心で接していきたいと思います。