継続という名の応援

昨日、今までの事業について色々と話し合う機会がありました。

何かを続けるということは、沢山の失敗や限界、また成功や可能性がありますがその一つ一つを話していることで苦しいこともありまた嬉しいこともありました。途中でよく諦めなかたものだと感心しつつも、今でも課題が続いていることに厳しくも有難い思いがします。

道に終わりがないように、人生にも終わりはありません。生き方というものは死に方ですから、どのような死に方をするのかは今の生き方が決めているのですから続けていく中でどのように続けていくのかを味わっていくことが何よりも大切であろうと思います。

もちろん楽しいか苦しいかではなく、気楽になるにはそのものと一体になるという工夫がいります。事業が自分の人生とシンクロするときになってはじめて、事業は健やかに育っていくのかもしれません。

昔の格言の一つに、苦しいから逃げるのではなく、逃げるから苦しいのだという言葉があります。何かをやるときに、苦しいから何か楽な方法をと選択するよりも、苦しくてもそのまましっかりと耐え忍び何かを掴んでいこうとする姿勢でいることでその事業もまた進展するようにも思います。

事業というものもそれは同じく生き方であり、事業をどのようにしていくのかというのは自らの人生をどのようにしていくのかに似ています。いくら事業を転々と変えても、その本来の事業への姿勢は生き方なのだから生き方を変えていくことで事業もまた変わっていくのかもしれません。

イチロー選手に、「やってみて「ダメだ」とわかったことと、はじめから「ダメだ」と言われたことは、違います。」という言葉があります。これは、諦めずに首尾一貫して長期的に継続していく中ではじめて事は成るのだからという意味があるのでしょう。

誰からどういわれようが一度はじめたことを途中でやめたら得たものよりももっと大切なものを失ってしまいます。ピンチの時に継続させてくれた方がいたこと、持続するために援けて下さった方があったことで事業は継承されてきたともいえます。そしてそれは諦めなかったというご縁であり、諦めないで継続できたという御恩と感謝の結びです。

何かを続けられるということは、それ自体が自分を信じている愛の証になっているように思います。そしてその続ける中で自分が何を取捨選択していくか、続けることは基盤であり基本、人生のプラットホームなのでしょうがその面と線の形をどのように変化させるか、つまりは事業の在り方を変化させるのかは自分の信じる生き方の反映なのでしょう。

やはりどの仕事も玲瓏かつ平凡に、一点を見つめて目標をひとつひとつ改善していくほかないように思います。継続という基盤さえ育っていれば、後は時間がすべてを解決していくからです。

このように継続できることを想えばいつも事業と共に一緒に歩んでくれる人があることが有難いと心から感じます。苦しみも悲しみも辛さも、歓びも嬉しさも共に分かち合い味わうことができることが真の幸せなのでしょう。

継続できるという未来と可能性の応援をいただいていることに感謝し、日々に新たに一歩ずつ挑戦して変化を味わっていきたいと思います。