発想の転換

先日、発想の転換について思うことがありました。

組織人事のことに携っていると、発想がマジメであるということよりも真剣かどうかということを優先しているかというのはよく考えるものです。

この真面目という考え方については以前、ブログでも書きましたが今回は単に他人からの評価を気にしてやっているのをマジメとし、真剣に遣ることを真面目と書いてみます。

人は何かを行う時に、努力すれば物事は解決すると刷り込まれています。その努力の定義は世間と比較してこれくらいドリョクすればとか、何かと比べてこれくらいドリョクするのだからというように他を意識しながらドリョクする癖を刷り込まれてしまいます。

するとこれだけドリョクしているのにとか、ドリョクしているのだからと努力というものを勘違いしたままのドリョクでは物事が解決していかないのです。本来の努力は、他と比較するものではなく達成するための本気の努力であり、自分に打ち克つ努力のことです。

そういう努力の場合は、今までの自分の発想を転じて新たな努力の境地を見出すことが必要になります。例えば、今までのドリョクの場合は「頑張る」という発想でしたが、これからの努力の場合「楽しむ」というような転換という具合にです。

そしてこれは先述しているマジメというものでも同じです。マジメにやっているよりも、真剣に行うとなれば発想が同じく頑張ればいいではなく、楽しめばいいと変換するのです。楽しむというのは簡単ではありません、周りからみれば大変不真面目なことをしているようにも見えますし、あんな不真面目で遊んでいたら上手くいくはずがないと批判の対象になったりします。

そういうものにいちいち負けてしまっていたら自分との勝負に打ち克つ前に、勝負がついてしまっているからです。人の目を気にして一々取り組んでいたらマジメそうにみえても大変不真面目なことをやっている場合があるのです。

真実はどうかといえば、本人は真剣なのだから周りの評価など気にせずにせっかくやるのだから周りには可笑しなことをしているようでも不真面目に見られてもむしろ楽しみながら遊びながら構わずやろうという発想を転換すればいいのです。

発想の転換とは、本質を維持することに似ています。本質を変えて自分を守るか、本質を守るために自分を変えるかということです。

本来の本質や理念を大切にしようとすれば、周囲の目や自分の中の執着にとらわれなくなるのです。そういうものを気にするところに我が入り込み、本来の努力や本来の真面目であることを遠ざけて対面体裁のドリョクやマジメに陥るように思います。人間には、恐怖心がありますから他人の評価というものはどこまでいっても怖いのです。しかしその恐怖よりも大切なものがあると信じる時、勇気を出して変わっていけるように思います。

自分自身が変わるというのは、自分の発想の方をゴロンと転がし換えてしまうようなものです。今までの自分から新しい自分になるというのは、発想の転換です。

今の時代はマジメにやって正直者がバカを見るとか愚痴ばかりの世の中です。そうではなく、正直者は心もオープンで素直ですから言い換えれば周りから見られることを気にしない程バカになれるのですから決してバカを見ることはないのです。それはバカがないからです、執らわれていないからです。

せっかく世界でたった一人の自分らしいものを与えてくださっているのですから、自分の御役目を有難く感じ、もっと信じた方を優先する真の強さを子どもたちに見せられるように楽しんでいきたいと思います。

どんなことが起きていても丸ごと善いことにしていこうとするのが本来の自然の発想なのかもしれません。自分都合の発想を転じて自然の発想に転じることを楽しんでいきたいと思います。